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【コンサル物語】第一次世界大戦

アーサー・アンダーセンがシカゴのウェスト・モンロー・ストリートに会計事務所を開設したおよそ半年後、1914年7月、第一次世界大戦が始まりました。

この戦争は皮肉にもアメリカ社会でプライス・ウォーターハウスやアーサー・アンダーセンといった会計事務所の地位を向上させ、1920年代の発展へと繋がる足掛かりとなりました。今回はその歴史に迫りたいと思います。

アメリカが第一次世界大戦に関わっていく歴史はおよそ次のようなものです。

1914年7月に始まった戦争に対してアメリカは最初中立を保っていた。当時のアメリカには、イギリス系、ドイツ系、フランス系等の移民がいたため、ドイツ・オーストリアとイギリス・フランス・ロシアなどが敵対して戦うこの戦争に加わるのは得策ではなかった。

しかし現実にはアメリカはイギリスと親密な関係にあり、戦争により物資が乏しいイギリスやフランスに対して積極的な輸出や資金を貸して支援していた。

一方戦況が苦しくなった敵国ドイツの潜水艦による無差別攻撃で、民間の客船ルシタニア号が撃沈されアメリカ人多数を含む1200人の死者が出た。こういったことも契機となり1917年4月、アメリカはドイツに宣戦布告した。

アメリカがヨーロッパに送り込んだ200万もの兵によりイギリス、フランス、ロシアの連合軍は勢い付き勝利へと繋がった。

『一冊でわかるアメリカ史』(関眞興)など

このようにアメリカが戦争に直接兵を送るのはかなり後になってからではありましたが、戦争の初期段階から支援という形で戦争に関わっていたわけです。そのため国内では様々な政策が取られましたが、このコンサル物語で注目したいのは当時の連邦税の政策についてです。

当時のアメリカの連邦税については『闘う公認会計士』に詳しく書かれています。

1913年、 アメリカ合衆国において初めて所得税法が成立し、会社の利益と個人の所得に税(基本税率1%)を課した。

第一次世界大戦による歳入不足を埋め合わせるために、1916年9月、歳入法を全面的に改訂し基本税率を個人、会社とも2%に上げた。また所得税以外にも新たな税を設定し、例えば弾薬製造業者に対する特別税(純利益の12.5%)等があった。

1917年3月、大戦への参加が切迫してきたので、陸軍及び海軍を増強する目的で緊急歳入法が成立し超過利得税(投下資本の8%を超える利益について8%の税)を課した。同年4月6日、 アメリカはドイツに対し宣戦布告、戦費調達のため、 10月3日に新たな歳入法を成立させ所得税の基本税率をさらに引き上げた(会社は基本税率6%、個人は4%)

さらに、1919年2月、また新たな歳入法を制定し、所得税の基本税率を更に引き上げた(会社は基本税率12%、個人は6%)。超過利得税も当然引き上げられ、他にも高率の戦時利得税を課した。

会社は、法人税、株式資本金税、不動産税、超過利得税、戦時利得税に加えて特別税、さらに州税や地方税を負担しなければならなかった。

『闘う公認会計士』(千代田邦夫)

高率の税負担に加え、法律は複雑であり管轄する財務省の規則の難解さ等が手伝って、専門家としての会計事務所への需要は著しく増加しました。

アーサー・アンダーセン会計事務所は新しい連邦税が会計事務所の業務に大きな影響を与えることに早くから気づいていました。事務所設立時のアナウンスメントに「連邦所得税法に基づく報告書の作成」を掲げ、最初から税務サービスをメニューとしています。ちょうど1913年3月1日に最初の連邦所得税が発行されその年の12月に事務所を設立した、そんなタイミングでした。

歴史を振り返ると、アーサー・アンダーセンは第一次世界大戦のこの時期に税務サービスを中心に事業を進めていたことが分かります。

二度にわたる歳入法の改正が行われた1917年から18年にかけて、ノースウェスタン大学商学部は連邦税に関する6つの特別講座を開講し、アンダーセン氏は教授としてこの講座を企画・担当しました。この講座には、著名な裁判官、銀行家、会計士、弁護士、企業経営者などが大勢参加したと言われています。アンダーセン氏は連邦税が与える影響の大きさを予見してこのコースを発表していました。

アンダーセン氏の活躍により、アーサー・アンダーセン会計事務所は税務分野における評価をあげました。クライアントへの高品質な税務サービスの提供は、コンサルティングや会計監査といったアーサー・アンダーセンの他の業務での仕事に繋がり、シカゴでの事務所の存在感を一気に高める結果になったのです。

この時期税務サービスを拡大していたのはアーサー・アンダーセンだけではありませんでした。他の大手会計事務所も機会を捉えていましたが、その中でも当時業界リーダーにあったプライス・ウォーターハウス(後のPWC)の場合は、その地位にあったからこその仕事でアンダーセン氏を悔しがらせたことでしょう。

第一次世界大戦が始まるとプライス・ウォーターハウスのトップであるジョージ・O・メイと社内の複数人の会計士はワシントンで政府の役職に就いていました。特に1917年の超過利潤税に関しては税務顧問として法律の策定にも関わっていて、更にはジョージ・O・メイは財務省のコンサルティング業務にも従事するようになっていました。

このようにプライス・ウォーターハウスの場合は業界トップの地位というメリットから、連邦政府での税法の作成に関わりながら、一方では税を負担する側の会社と個人への税務サービスの提供という両面で事業を展開し、アーサー・アンダーセンには決して真似のできない仕事をしていました。

プライス・ウォーターハウスの社史にも戦争中の税務サービスの拡大が記載されています。

超過利潤税の結果、当事務所は税務の仕事をより多く引き受けることになった。所得税等の税率が上がり、税法が改正されるたびに、会計士はビジネス界にとって重要な存在となり、会計士は着実に成長していった。

戦時中、プライス・ウォーターハウスの税務業務は急速に拡大した。戦争産業や税金の問題で、会計士が無限に必要とされるようになったからだ。

『ACCOUNTING FOR SUCCESS』

第一次世界大戦により会計事務所はビジネス界における存在感を増しました。特にシカゴではアーサー・アンダーセンが設立後数年で急成長し、この後1920年代にシカゴに見られるコンサルティング発展の土台を作っていました。

(参考資料)
『THE FIRST SIXTY YEARS』(ARTHUR ANDERSEN & CO.)

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