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【コンサル物語】小説『華麗なるギャツビー』(フィツジェラルド)〜20世紀初頭のアメリカを描いた文学作品〜

20世紀初頭のアメリカではシカゴやニューヨークを中心に、後に巨大コンサルティング会社となる会計事務所や経営エンジニアリング会社が誕生しました。第一次世界大戦とその後の好景気に象徴される時代でした。前2回に続きそのような時代のアメリカやアメリカ人を描いた文学作品を見ていきたいと思います。

今回は1920年代のアメリカを代表する作品『華麗なるギャツビー』を取り上げたいと思います。原作の『The Great Gatsby』は日本でも多くの翻訳版が出ておりますが、今回は大貫三郎氏の翻訳版(角川文庫)をもとに書いています。

狂騒の20年代を文学作品として描いたこの作品の名は、文学の世界に留まらず歴史や会計の書籍にも登場するほど有名です。

例えば歴史本の中では、1920年代の繁栄を批判的に捉えたものとして紹介しているものがあります。

多くのアメリカ国民が経済的繁栄に満足していたなかで、その問題点を指摘した人々もいた。「失われた世代」と呼ばれる世代の文学者たちもそのなかに含まれる。
(中略)
F・スコット・フィッツジェラルド (1896-1940)の『偉大なるギャッツビー』(1925年)も、物質的に豊かで華麗な生活を送る主人公が、悲惨な最期を遂げる形で小説を終えている。

『大学で学ぶアメリカ史 和田光弘』

また会計本でも、1920年代の会計業界に対する批判に触れた一節の中で紹介されています。

これ(会計業界が批判に応えられなかったのは)は、ひとり会計士業界だけの問題ではなかった。ハーディン グ大統領(1921-23)の掲げる「正常への復帰」は「産業の黄金時代」の幕開けであり、クーリッジ大統領(1923-29)の産業界に対する自由放任主義は、企業の会計責任を求める声をなきに等しくしたのである。時代は産業界の利益を保護することが支配的だったのである。この時代の小説家フィッジェラルド(F. Scott Fitzgerald)の『グレート・ギャツビー』(The Great Gatsby,1925)は、その状況の一端を描いている。

『闘う公認会計士』(千代田邦夫)

『華麗なるギャツビー』のあらすじをご紹介します。ニューヨーク近郊で大豪邸を構え、夜な夜な華やかなパーティーを開く謎の男ギャツビー氏。パーティーには成功をおさめた金持ちが気ままに集まり、場を謳歌します。ギャツビー氏の目的は既にシカゴの裕福な男ビュキャナン氏と結婚していたかつての恋人デイジーを取り戻すことでした。狂気とも言える純粋な情熱で、デイジーを一度は取り戻すことに成功したギャツビー氏ですが、最期に悲劇的な死を遂げることになる、という話です。

今回『華麗なるギャツビー』から取り上げたいのは、この作品に描かれている繁栄の20年代とシカゴについての2点です。

最初に、繁栄の20年代がどのように描かれているのか。
作中いくつか象徴的なものが登場しますが、ギャツビー氏の豪邸とそこで夜ごとに行われるパーティーがまさに繁栄の20年代を象徴するものの一つと捉えることができると思います。

1922年の夏、ギャツビー氏の家にきた人々は65組もの夫妻、単身者に上ったことが作品の中で書かれています。その内訳はビジネスで成功した人(際どい商売人を含む)、博士、映画関係者、俳優、政治家、投資家など多岐に渡っていましたが、いずれも富を築いている人達ばかりでした。

少し話はそれますが、当時の現実世界では、こういった人々の中に会計事務所の監査、税務、あるいはコンサルティングサービスを受けていた人もいたことでしょう。ニューヨークであれば、プライス・ウォーターハウス(後のPWC)あるいはハスキンズ・アンド・セルズ(後のDeloitte)であり、シカゴであればアーサー・アンダーセンといった会計事務所等です。

話を戻しますと、夜ごとのパーティーに先の人々を受け入れることを可能にしていたのがギャツビー氏の大豪邸です。かつての恋人デイジーを初めて迎え入れる場面に豪邸の様子が描かれています。

海峡に沿った近道を行かないで、路へ出てから、大きな通用門をくぐった。デイジーはうっとりするような小声で、空に突き立っている封建時代風の影絵のような邸宅を、こっちの面がいい、あっちの相がすばらしいと褒めた。庭園を褒め、きらめくばかりに香る黄水仙、泡のかたまりのようなサンザシの香、西洋スモモの花、薄金色に香る三色スミレなどを褒めた。(中略)
なかに入って、マリ・アントワネット音楽室や王政復古時代風の客間をぶらぶら歩いて行く
(中略)
二階へあがって、薔薇色やラヴェンダー色の絹に包まれて、新しい花々が置かれて生き生きした感じのする、時代がかった寝室をいくつも通り抜け、化粧室、玉突き場、沈下した浴槽のある浴室をいくつも通り抜けた
(中略)
最後に寝室と浴室とアダム式装飾様式の書斎からなる、ギャツビーの部屋に来た。

『華麗なるギャツビー』(スコット・フィツジェラルド 大貫三郎訳)

続いて『華麗なるギャツビー』で描かれるシカゴについて。

この作品の舞台はほぼ全編に渡りニューヨークとその近郊です。ところが興味深いことに主要な登場人物はみんなシカゴ周辺の中西部出身です。ギャツビー氏はシカゴの北西に位置するミネソタ州、恋人デイジーはシカゴの南東のケンタッキー州、デイジーの夫ビュキャナン氏はシカゴ、ギャツビー氏の隣人で物語の語り手である「僕」(ニック・キャラウェイ)も中西部の都市出身、「僕」が憧れる女性ジョーダン・ベイカーはデイジーと同じケンタッキー州の町の出身です。

それは作品の中でも触れられています。

いまになってわかるのだが、これは結局西部の物語りだった ―トムやギャツビー、デイジーやジョーダンや僕は、みんな西部の人間だ。そのためだろう、みんな申し合せたように欠陥があって、不思議と東部の生活になじめないのだ。

『華麗なるギャツビー』(スコット・フィツジェラルド 大貫三郎訳)

1920年代の狂騒を象徴する街ニューヨークで華やかな生活を謳歌するギャツビー氏を始めとする人々。ギャツビー氏のビジネスがシカゴを拠点としていたことも含め、繁栄の実体はシカゴを中心とした中西部に発している一面もあることを暗に示している、そんなことが少し深読みながら読み取れるかもしれません。

「僕」がシカゴから更に西の故郷に帰るとき、シカゴのユニオン・ステーションから発車した汽車はシカゴの北ウィスコンシン州に向かって進みます。

汽車が駅を出て、冬の夜のなかへ向って進み、雪らしい雪、僕たちの雪が身近かにずうっと拡がり、窓にキラキラし始めて、ウィスコンシンの小さい駅々のぼんやりした灯が、汽車の傍をすれ違うころともなると、鋭く荒々しく緊張したものが、さっと空気のなかにはいってくる。夕食をすませて、寒いデッキを戻ってきながら、その空気を深く吸いこみ、この地方でこそ、僕たちも水をえた魚のようになるのだという、なんともいえない意識が生れるのだが、その不 思議な一時間がすぎると、また今度はその空気のなかに、見分けがつかないくらいに融けこんでしまうのだ。

『華麗なるギャツビー』(スコット・フィツジェラルド 大貫三郎訳)

中西部こそ自分らしく生きられる場所、東部(ニューヨーク)は夢の世界の一面を持っている、そんな時代を描いた作品ではないでしょうか。


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