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「不正の子」路地裏で生きてきた僕には強みがある

親ガチャって言葉が流行った。
生まれや育ちによって、人生のルートがほぼ確定していることを揶揄する言葉。

裕福な家庭に生まれたら裕福に
貧困家庭に生まれたら貧困のまま

自分を生んでくれた、いや「I was born.」と英語で言うように「生まれさせられた」ということ。うまいこと言うな、と思う。
僕らのいのちは受け身形。
その親、その国、性別や人種は自分で選んだ結果ではない。

生まれさせられた、それがスタートだ。

僕は大阪市淀川区の飯場で
鹿児島から鉄筋工として働く父
飯場の「飯炊き」の母のもとで
第1子として生まれた。

そう生まれた家、そのものが無い
建設会社の寮で生まれ育った。

小学校入学の頃には、大阪府寝屋川市のせせこましい
文化住宅やアパートが立ち並び、路地が張り巡らされている
そんなガサ街で育った。

まわりは低所得者ばかりだったのだろう。
どの家の父親も、みんな建設業の職人だったように思う。

父も母も酒好き。父はボートレースにのめり込んでいた。
ボートはもっとも、ハマりやすいギャンブルと言われている。

当然、父母は不仲となり、離婚
母に引き取られた。そのころ、弟が2人
母は女手ひとつで、男3人を育てることを選んだ。

当時、母は偉大だと思った。
僕も母のために、一生懸命頑張らなければならないと思った。

だが、貧困という環境では、どうしても限界が生じる。
勉強するための塾に行くお金が無い
独学で、頂上を目指すのは理想。
だって、親は中学卒業でずっと飯炊き仕事ばっかりだったら
勉強を教えてもらうこともできない。

四面楚歌
ってこういう状態を言うのかもしれない。

そんななか、母は懸命だった

パート収入にも限界がある。

どうやって食べて、家賃を払っていたのか

生活保護

しかない。
ちなみに中学から公立高校入学は
まさに「朝活」と今、言われている

早朝に学校に行って、先生に教えてもらう

ことで、中学浪人することなく高校に進学できた。
何もない・・・そんな中で勝ち取った栄光だった

高校に入ってからはクラブ活動は文化系で、アルバイトに就いた。
公立高校だったけど、奨学金でまかなった。
四半期ごとに、高校の事務室に言って奨学金をもらっていた

そんな時代
いまでは考えられない、意外に恥ずかしい状況

でも、それが普通と思っていた自分は、なんとも思わなかった。

高校卒業後、地方の大学に行くことができたが、
それより働かなくっちゃ、ってことで、今の仕事に就いた。

でも・・・

母は、僕に給料をどれだけ入れるか?
って、率直なことは言ってくれなかった。
遠慮したのか・・・どうなのか・・・

引き続き、弟2人を育てることと、
当時住んでいた文化住宅

もう1棟を借りて「あんたらの部屋ができた」と言ってくれた

その時は、その言葉を信じ、非常にうれしかった

あれから、僕は独立、結婚
今は自分が、対人援助の仕事をするようになっている

生活保護の仕組みを知るようになって

収入にシビアな扱いであることを知って・・・

あれ・・・もしや

文化住宅を1棟借りたり
高校に通って、アルバイト収入を得ていたことも

そこに、何らかのごまかしがあったんじゃないか?
と、気づくようになった。

ホント

女手で、学力なく定職に就くことが厳しく、パート収入しかなく
親から子に、正直な相談をすることができない

そんな母が、自分も生きて、迷惑をかけずに我ら男衆を育ててくれた
その舞台裏に、ようやく気付いた昨今

いま、令和の世の中は格差が広がっているとひしひしと感じる

豊かな人は、豊かに
貧困にあえぐ人は、そこから抜け出すイメージすら湧かないくらい、打つ手なく困っている

表に見えない、路地裏で生きていくって
きれいごとではないのだと思う
いまさら、必死の姿の陰に、不正があったのかと邪推もする

もう、その過去は塗り替えらえない
ああ、そうだったのか・・・と気づいた自分ができることは

明日、自分ができる
もっとも良質なことを目指そうと思う

そして
自分を、まわりを、信じて
自分のことも信頼してもらえるようにしたい

だって
僕らは

路地裏で生き抜いた
しぶとい人間だから

そして
少しばかり手を汚してくれた

褒められることではないが
僕にとっては、やはり偉大だと思う。

しぶとく生き抜いた自分から
近いうちに、しっかりと感謝を伝えたいと思っている。





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