_エディプスを失った街で_

『エディプスを失った街で』第5話


「俺、滑り止めはいらないから」

 と、真司が唐突にそう口にしたのは年の暮れのことだった。

「ついでに言うなら、今年はどうせ使うタイミング無いからお年玉もいらない」

 淡々と。何の感情も孕んでいないような、そんな素振りで真司が続ける。

 俺の仕事もひとまずの落ち着きを見せ、今日大掃除をすれば年が明けて五日までは休みの予定という、そんな日のことだった。

「おい真司。お金のこと心配しているなら、その準備位してるから遠慮なんかするな。お前、勉強頑張ってるだろ」

「いいよ。どうせ受かるし。俺の学校での成績知ってるでしょ? へましなければ受かるから」

 そのやりとりは、昔、俺が父親としたそれと全くといっていいほど同じだった。窓の外の不気味な薄暗さまで、同じだったように思う。

 その後、結局俺は滑り止めを受けたのだったろうか。受けなかったのだろうか。

「それにしても、お年玉の方は卒業してから使えるだろう?」

「んー。そうかもしれないけど、それよりかは美味しいおせちでお願いしたいかな」

 石油ストーブの音だけが部屋の中に広がっている。家の大掃除は明日する予定だったから、まだ部屋は埃を被っていて汚い。この環境が、もしかすると真司に要らぬ気遣いをさせているのだろうか。

 周囲の子たちが総じて通っている塾にすら行かせてやれていないというのに、その上滑り止めやお年玉までやめるというのは、親としてのプライドがそれを許さなかった。

「おせちは当然、お前の友達の誰が食べたものより美味しいもんを作る。年越し蕎麦も。だけどそれとこれとは別だよ。滑り止めだって、絶対に失敗しないとは限らないだろう?」

「そうかもしれないけどさ、落ちたら働けばいいだけだし。……そもそも、うち、大学行くお金ないでしょ? なのに進学校行っても仕方ないかなって思ってるんだよね」

「大学だって行かせてやるさ。子どもがそんなに気を遣うなって。とりあえず、滑り止めは受けるようにして、お年玉も、それくらい渡させてくれよ」

 真司が漸く、参考書から視線を俺の方に寄越す。顔は緑色の、ぼろぼろになった参考書に向けられたままだったから、何となく俺が睨まれているような形だ。

 お金の話が俺を、俺が親父と二人で話していた大昔に連れて行こうとしていたが何とか堪えていた。

 俺のとき、大学まで行けたのは、偏にあの忌まわしい震災が起きた「おかげ」であった。

 でも真司の抱える――俺の貧困という問題には、そんな偶然は起こりそうにない。正直な話をすれば、現状、真司を大学に行かせるお金はないし、また今後、そんな大金を用意するあても一切無かった。

 それでも。

「親の都合で子どもがやりたいことをやれないなんて、そんなの駄目だ。限度はあるけれど、大学に行きたいなんてのは、そう無理な願いじゃない。確かにうちは貧乏だけどさ、やりたいことは正直にやりたいって言ってくれよ」

 真司は再び視線を参考書に戻した。ボールペンを右手にとって、何かを書き込む。考えているのだろうか。その動きはぎこちなく動いては止まってを繰り返している。

「まあ、正直にいえば、俺だって他の奴らと同じように塾とか、行ってみたいとは思ったりもするけどさ。家庭ごとに事情があるもんだし、親の都合で、とはいっても、ある意味俺の都合でもあるからさ」

 親の都合を自分の都合だなんて……。
 俺はそんなこと、言えたことはなかった。思ったことすら。
 俺はただ、自分が可哀相な境遇に育ったと、そう自分を哀れむことしかしていなかった。

 真司は、どこまで大人になっていくのだろうか。
 まだ十五歳だというのに。

 それは、やはり父子家庭だからなのだろうか。母がいないというひとつの事実が、真司を否応なく大人にしてしまったのだろうか。
それとも、俺が――父親が不甲斐ないからなのだろうか。


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