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麒麟はこなかった、しかし麒麟はくる、きっと

---完---

私 「来ないやん! 麒麟来んかったやん! 一年以上も来るぞ来るぞって言ってたくせに! これじゃ、くるくる詐欺やん! ばかばかばかー!」
息子「ちょ、おれにいうなって!」

というわけで、放送終了直後、10歳に向かって暴れてみましたが、それは長い物語が終わり万感の思いに打たれたからであって、私はとても満足です。
(ちなみに夫には、「‥‥来ると思っとったと?」と真顔で言われました。ああ思ってなかったよ!)

やはり、月まで届く木を切り倒してしまった前回ラストまでであらかたのカラクリは示されていて、最終回は粛々と答え合わせをしていくようなおもむきでした。戦国最大のミステリー本能寺の変は、十兵衛(光秀)と信長の長い長い愛憎劇の帰結であったと。えっ違う?w

ふたりの最後の対話は見ごたえ十分でしたね。
信長ったら、前回ラスト、あそこまで衆人の前で面罵しといて「いろいろ言ったけど気にするな」もあんまりでしたが、「二人で茶でも飲んで暮らさないか」という呑気なプロポーズ(違)には噴き出しました。ノッブ、十兵衛好きすぎ! その愛にはひとすじのブレもないのであったw 

いやほんと、40歳以上の視聴者の多くが「♪このまま二人で 夢をそろえて 何げなく 暮らさないか~」を思い出したんじゃないでしょうか。考えてみたら、ノッブって周りの人々に「SAY YES」を迫り続け、ふられ続ける人生‥‥。

次に信長の口から出た「ゆっくり眠りたい」も衝撃だった。十兵衛も例の悪夢のせいで不眠だと告白するシーンがありましたでしょ。そんなとこまでそっくりの二人であり、謀反は信長にとって(そして十兵衛にとっても)解放でもあるという示唆になってた。

闇夜に松明を掲げての突入が多い中、早暁、薄明の本能寺というのも珍しかったですね。十兵衛と信長、ふたりの長い愛憎劇(←しつこいw)の終わりなんだけど、世の中を転回させる “ 夜明け ” でもあるのだと。

「敵は本能寺」でワーッと歓声を上げてた夫と息子。
もちろんそこもよかったけど。
角を曲がって馬上の十兵衛が本能寺の前に姿を現したとき、心底から高揚した私です。

これよ! 
この瞬間のための一年間だった!! 
十兵衛はこうするしかなかったし、これは十兵衛にしかできないことだった、そう叫びたいくらいでした。
この納得感! 
これが大河ドラマを見続ける醍醐味よ。
ハセヒロ最高にかっこよかった!!

はためく桔梗紋の旗を見て「十兵衛か」と悟る信長の表情!
笑ってた。くおおおおおお!(興奮)

寺を囲まれてもうどうしようもない、という「是非もなし」ではなく、
「 “ 十兵衛ならば ” 是非もなし」なんだよね。
納得×1,000,000!!!!!  エモ×2,000,000じゃあ!!!!!

討たれるならば、他の誰でもなく十兵衛でなけりゃ、と。
そして、最近じゃどんなに言葉をぶつけあっても分かり合えなかった大好きな十兵衛の心の核に、やっと触れた気がして、それがうれしかったのではないかと。
だからあんなに生き生きと、獲物をもって闘ったのではないでしょうか。

エロスとしての本能寺の変なんですよね。タナトス(死)の直前にもっとも輝くエロス(生と愛)。

初回で十兵衛が初めて見た鉄砲。道三に命じられ京に買い付けにいき、戦国の世に新しい展開をもたらした鉄砲が信長に向けられる。桶狭間のころは「弾など当たらん!」とイケイケおらおらだった信長に弾が命中する。

介錯もなく、たったひとりで死んでいった信長。前のめりで斃れたその恰好が胎児のように見えて胸が詰まった。

伊呂波太夫に「必ず麒麟を連れてくる」と豪語する十兵衛。その謀反は裏切りでもノイローゼでも怨恨でもなく、やはりその心根には「誇り」があり、彼の誇りとは、武士として新しい世をつくることだったんだと思う。

その後の怒涛のナレーション処理は、もちろん「この流れは、教科書とか他のドラマとかで知ってるよね?」という前提の上だけど、今作のこれまでの作劇があってこそ飲み込めたというのもある。

盟友だったかのような細川藤孝が動かず、ましていち早く秀吉に「明智に謀反の疑いあり」と密使を送っていたのは、将軍義輝を見限ったときのリフレイン。
(ちなみに、藤孝の兄の三淵は対照的に「主君がトチ狂ったときほど家臣の真価が問われる(大意)」といって粛然と死に臨みましたね)

光秀の謀反(の可能性)を知って「おもしろい」と目を丸くする、今作の秀吉像の新しさと納得感! この秀吉には、光秀の1/10も信長への情がない。信長から秀吉も然りで、お互いに「役に立つ」としか思ってないという、とても新鮮な設定でした。この秀吉には、光秀は敗れるだろうねとも思う。

みんなが信長を危ぶみ、疎んでいた。
十兵衛はそんな信長とある意味一心同体だったから、信長と同時に十兵衛も排除されたのは納得がいく。
客観的に見ると、ひとりでこっそり鞆に行ったり、帝に会ったりと十兵衛も暴走機関車になっていたことも描かれている。

というか、本能寺の灰をつかんでじっと見つめていた十兵衛の沈痛な表情‥‥。ある意味、あのとき十兵衛も死んだんだよね。信長とともに。

家康はまだ力がなく、三河に帰るのが精いっぱいだった。その代わり、菊丸を解き放った。菊丸が山中で敗走する光秀を助けたのだと私は信じています!

そう。
「麒麟こなかった & 光秀生存かも END 」
の鮮やかさよ!!!

歴史の新説と通説を織り交ぜながら描かれてきた今作が、とびきりのロマンで終わったことに熱い感動を覚える。
麒麟はくる。
信長が去ったのち、秀吉の世の平和は束の間で、戦はその後も続くのだが。
世は無常だが。
いつかくる麒麟を信じて走り続ける者がいる、それが人の世の営み。

帝と将軍という、社会秩序の最上位に位置した二人を、聖人と俗人、両極端のキャラに振り切って描いたのもおもしろかった。

帝は十兵衛に心を寄せながらも「我関せず」で双六をうち、
十兵衛が暗殺命令を拒んで信長を殺したので命拾いした将軍義昭は、「あいつはダメだ、十兵衛は良かったし信長はマシだった」とうそぶきながら釣りにいそしむ。

地位や名誉のある人は呑気でいいねとも、結局は保身だよねともいえるし、生存戦略のために賭けているのは、やんごとなき人たちも同じだよねとも思える。
さまざまな大名や武士たちが敗れ去ったのと対照的に、伊呂波太夫、駒や東庵そして菊丸まで、市井の人々は全員生き延びて最終回を迎えたところにも作者のまなざしを感じます。

描く対象は歴史だけれど、それを「今、作る」という二重の時間軸をもつのが大河のおもしろさ。以前の感想にも書いたとおり、2020年現在ならではの作品だった。

承認欲求をこじらせて、ある意味幼児的なままで死んでいく信長は現代ならではの造形で、ハセヒロよりずっと年若い染谷将太がキャスティングされたのも納得。ほかの登場人物も含め、老けメイクもほとんどなし。メイク時間の短縮という実務的な理由もあるけど、この大河に合ってたと思う。みんな老成しなかったですよね。人生百年時代、40や50で人は成熟しない。

話数は削られなかったものの、 コロナ対応で脚本も演出もかなりの変更を強いられたはず。
駒や伊呂波太夫まわり、明智の家臣や細川などもっと描写が欲しかった部分もいろいろあるけれど、物語の骨盤がしっかりしていたのがさすが御大の脚本だなと。
制約の中で作られた成果物を、ほぼリアルタイムで見られるのがテレビドラマというもので、その秀作にはいつも励まされます。

池端俊策が手掛けた『太平記』は子ども時代に見た中で3本の指に入る大河。氏が書く大河をもう一度見たいと10年以上前から願ってた。75歳の池端さん、脱稿したのは今年1月初めだという。
無事に「完」マークを見られて本当に感無量でした。一年間という長い期間、共に走り続けてきた達成感があるよね。いやドラマ見てただけだけどねw

大河の題材として「明智光秀」が上がり始めたのはもう10年以上前。
「いやいやさすがに明智は無理でしょ」と思ってましたが、誇り高くまっすぐすぎる明智十兵衛と、どこか爽快な本能寺の変、そして麒麟はこないけどきっとくる、そんな希望あるラストに感謝です~~~!!!!!

来週からはのんびり見れそう。完走できるといいけどどうかな~

放送終了後に公式さんがアップした動画で、ハセヒロが続編を切望していて笑ったw めっちゃ天海大僧正説推してくるやんw  ここまで未練たらたらな大河主演も珍しいぞ、いいぞいいぞw

2018年4月、池端脚本による「麒麟がくる」制作発表に取り乱す私の記録w


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