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『読書と日本人』 津野梅太郎

名編集者による日本人の読書史。軽く読めるけどただの雑学じゃない。想像力や思考力がめちゃくちゃ刺激される! こういうのを「教養」っていうんじゃないかな。

「日本人は昔から識字率が高かった」という漠然とした感覚ってありますよね。戦国時代または幕末・維新にかけて来日した外国人たちが驚きをもって記録していることから広まったと思われます。「寺子屋」に通う子どもたちのイメージもあるかもしれません(時代劇でよくあるやつね)。
ただし、当時、現代のようにほぼすべての子どもが読み書きを習う機会があったかというと、やはりそうではありません。

明治維新のころ来日したロナルド・ドーアの調査によると、当時、初歩的な読み書き教育を受けていた日本人の男の子は40%、女の子は10%だったそうです。
しかもこれは全国平均で、東北などの地方では、寺子屋に通う女の子は男の子のわずか5%しかいないという記録もあったとか。

その後、1900年ごろ(日本でいう明治後半)には、ヨーロッパの先進地域では女性も含めて人口の9割以上が文字を読めるようになっていたらしい(ドイツ、スコットランド、ネーデルランド、北東・南部イングランド、フランス東部など)。
同時期、アメリカでも非白人も含めて識字率は9割以上。
日本も学制(義務教育)が全国にいきわたった1910年ごろには、男女合わせて9割以上が読み書きできるようになっていたとのことで、世界の先進圏はほぼ同じ水準で20世紀を迎えているのです。

また、一般市民の多くが読書できるために必要なのは、文字を読める能力のほかにもたくさんあります。
本を作れるだけの紙が大量にあること。
本を読む時間があること。
暗くなっても読める灯りがあること。
印刷の技術や流通網、販売形式が確立されていること。そして、広く一般市民の興味を引く本が多数あり、
「本を読むのは良いことだ、楽しいことだ」という文化が浸透していること‥‥。
これらの要件は一朝一夕にみたされるものではありません。

本書では、古代から現代までを、「読書」という観点から通史的に記述していきます。

列島が最初に手にした文字は大陸・半島からもたらされた漢字で、当初はごく限られた人間しか扱うことができないものでした。
古代の政治は「まつりごと」つまり「祭り事」、人智を超えたものと一体化していたので、人は漢字=文字に対して畏怖を抱いていました。

9世紀、仏典を読むために開発された「カタカナ」や、貴族階級の女性たちによって膾炙した「ひらがな」によって文字は徐々に広がってゆき、さらに『鎌倉殿の十三人』で描かれる中世に入ると、土地を守るための権利書類や訴訟書類、つまり「実務」のために読み書きが必要になる人が増えていきます。

やがて、戦国・安土桃山期に入ると、キリスト教の宣教師がもたらしたヨーロッパ式と、秀吉の朝鮮侵攻の際に略奪した朝鮮式、日本人はふたつの活版印刷技術と出会うも、種々の事情でこれらはすぐには根付かず、江戸時代に入って「木版」全盛期になるのですが、いずれにしても、印刷による大量出版・大量流通がかなうための「下地」は、その前の時代までに整っていたというのです。
もちろん、江戸時代、戦乱のない長い世が文化・経済を発展させ、人々の学習欲・読書欲に大いに貢献した面もあります。

しかし、本当の意味で多くの老若男女が読書を楽しむようになったのは、前述したように、識字率9割を超える20世紀に入ってから。
国力を増強するための公教育の普及や、大量生産(流通)・大量宣伝・大量消費の形式が整ったからなのです。
資本主義の隆盛が「読書の平等化」に大いに貢献したわけです。

大正時代の東京では、特に知的エリート層ではない日雇い労働者のような層の人々の日記にも、読書メモが多く残っているといいます。都市ではすでに、利便性の高い図書館の仕組みが出来上がっていました。

関東大震災、第二次世界大戦。
20世紀前半の日本は、大量の書物どころか建造物、都市、そして多くの人命までもが失われる惨事を二度も経験しましたが、出版文化つまり人々の読書欲は旺盛なままでした。

終戦間近に出版点数が著しく減ったのは当然ですが、戦前戦中(1941,昭和16年)の出版点数のピークを超えたのは、1970年代つまり昭和50年代半ばを過ぎてからだというから驚きです。
1941年の出版点数は、約2万9千点。
1941年12月に英米との戦争を始めたので、そこから統制が加速し物資もいよいよ欠乏していったんでしょうね。
ちなみに、昭和19年は5,438点、昭和20年は、878点‥‥。
まさに、何もないほどの欠乏の中で敗戦を迎えた、というか、そうなるまで戦争をやめられなかったのがわかります。

話は再び現代に近づき、バブルがはじけたあとも出版点数が増え続ける一方で、世界的に「出版不況」「読書の質の低下」「ネット・スマホとの競合そして敗北」のようなことも言われるようになりますが、筆者は悲観的ではありません。

確かに、20世紀的「読書の黄金時代」は変質しました。
でも、逆に言えば20世紀だけが異質だったともいえます。

「紙であれ、デジタルであれ、人は「読む」ことへの欲望を失うことはないだろう。映画が生まれたとき、テレビがお茶の間を席巻したときも、「活字の敗北」は常に言われてきた。震災や戦災で身の回りの多くが失われても、人はやはり本を求め続けてきたじゃないか」と、筆者は言います。

「人々は読書を通じて新しい表現、新しい思想を求めることをやめないでしょう。同様に、古い表現や思想と付き合う術を捨て去ることもないに違いない」

「この先、私たちの世界がいっそう暗鬱なものとなる可能性は決して小さくない。そんな未来に潰されることなく大きな心を保ちつづけるには、今生きている人間の情報や知見だけでは足りない。そこに、5千年の歴史を持つ本のうちに蓄積された人びとの知恵や体験に合流してもらう必要がある。やはり、私たちには読書が必要なのです」

末尾のこの文章に、読書と人との普遍的な関係が凝縮されています。

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