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『麒麟がくる』43話「闇に光る樹」

最後、顔芸の応酬きましたね~! これは「半沢直樹」に寄せたのではなく、もともとハセヒロの芸風のひとつですのでね! てか、そもそも半沢のほうが時代劇(歌舞伎)に寄せているわけなんだけどねw

いよいよプレ最終回。カードが出そろっていく感じがたまらない。
前々回、“ 桂男 ” のエピソードがきたとき、正直なところ唐突な気もしてたんだよね。今回の「信長が登る、月まで伸びた木を切ろうとする夢」でも最初気づかなかったのだけど、帰蝶と話すシーンでやっとわかった。

むかし幾度か言及された、
「子どものころ、木に登って降りられず泣いていた十兵衛(光秀)」
とかけてあるんだ! 

「信長様あっての私。毒を盛るのは己に毒を盛るのと同じ」と十兵衛自身が言うように、月まで届く木を切って信長を振り落とすのは、自死に近いものがあると。

まるで暴君と化した信長について、「道三ならば毒を盛る(キリッ)」と迷わず答える帰蝶に「だろうね!」と盛大にうなずく私。ぶれない人たちだw しかも、このときの帰蝶のアングルが至高の美しさだったw

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目を転じると、かつて信長を褒めたり策を授けたりして背を押してきた十兵衛と帰蝶は、信長の疑似的な親でもある。実の両親からの愛情を得られなかった信長は、だからこの二人によりかかってきたのだ。

その帰蝶の親が道三だが、道三もまた、息子高政を討つべく挙兵して、落命した。高政はそのときは父に勝ったものの「マムシの罠にかかった」という苦い言葉を残し、その後早逝する。

一方、十兵衛の父は炎の中から子ども(駒=次世代)の命を助けている。

道三と十兵衛の父
  ↓
十兵衛と帰蝶(と、高政と駒) 
  ↓
信長

という、三世代の系譜ね。

子どもを討った親(道三)と、子どもの命を助けた親(十兵衛の父)。
両者は正反対のようで、「次世代のための行い」という点では一致しているようでもある。そのハイブリッドが十兵衛になるということだろうか。

ここで思い出すのは、以前、駒が「平らかな世をつくるための戦いの正当化」を批判していたこと。「世を治めるためだ、そう言ってみんな戦をする」と激しく怒っていたよね。

昨日の帰蝶と十兵衛の「そんな(=毒を盛る)道三が大嫌いだった」という言葉もその相似形なのだと思う。大義名分が立つからといって殺戮がOKなのではない。本来否定・忌避すべきことで、そこには身を切るような痛みがあるべきなのだと。

ここへきて帰蝶が初めて「本当は嫁ぎたくなかった」と言葉に出したのもハッとした。帰蝶は若いころ、まるでフィクサーのように信長を育ててきた。でも始まりは父と十兵衛つまり男たちに「嫁げ」と言われ、そこに拒否権はなかったのだ。そこには当時の女性の悲しみがある。

十兵衛にしても、大義名分だけで謀反を決めるのではなく、家康という他家の人間まで含めた衆前で罵倒されて、積もり積もった抵抗感や心労が爆発し「キレる」姿が描かれるのもよかった。向かってきた蘭丸を力でねじ伏せる描写も。さすがにこの十兵衛の性分では主君は殴れないもんねw 嫉妬や屈辱、怒り。人間は理性のみには生きられない。

身分やジェンダーという「縛り」の中でどうにか主体的に生きようとするが、俯瞰してみれば誰もかれもが敗れていく。それでも次世代に託すしかない、きっと誰かが麒麟を連れてくるはずだ‥‥という話だったのかな(気の早い総括w)。

つまり、十兵衛にとって、信長への叛逆は、子殺しであり、ある種の自死でもある。しかし、それは麒麟がくる道を絶たないためには避けられないのだと。

現代もさまざまな陰謀論が跋扈していますがw 本能寺の変も「黒幕説」の宝庫なんだよね。秀吉、家康、正親町天皇、近衛前久、堺の商人たち、将軍や西の大名たち。
今作では、「その多くを否定しつつ肯定もしている」とでもいうような書き方がおもしろい。

みなが信長を嫌ったり危ぶんだりしている。彼らは決して光秀をそそのかしたりはしないが、光秀はその思いを知っている。そして光秀がやらなくても、遠からず何らかの形で自滅しただろうな‥‥と思わせる信長像だ。

「そんな信長の製造責任を取る光秀」という、いわば「光秀史観」が新しくもあり、同時に古い通説からの信長のイメージとも齟齬がなくて、作り手の手練れだなあと感服至極です。

今回、秀吉の別の側面も描かれましたね。
「信長は焦りすぎている」「帝に譲位を迫るのは不敬」と言う秀吉。いつものどす黒い表情ではなく、あくまで冷静さが強調されていた。「本当は武士が大嫌いで公家びいき」と大夫に評されたのもポイント。
百姓出身なのは、秀吉のコンプレックスの源でもあるが、武士とは違う視点をもてる強みでもあるのだと。

家康は、善政を行おうとする名君ぶりとともに、「信長に言われなくても妻子は処断すべきだった」という冷徹な一面ものぞかせる。
信長は「妻子を殺されたのをまだ根にもってるな」と臍を噛んでいたけど、家康はそういう煩悩を超えたところにいる。思えば今作で家康にとって信長は父親の仇だが、それを恨んだ様子もない。6歳にして「アイツは殺されて当然」と言い切る子だった。

秀吉と家康、信長亡き後の天下人をそれらしく描く目配りがいいですね。

「エール」もそうだったんですが、本作もコロナ禍の撮影でかなり変更・省略があった様子も見受けられます。それでも、御大の御大らしい筆致が冴えわたりながら1年走ってきた「麒麟が来る」です。いざ本能寺!

入りきれなかった話をボイスメモのほうで。若干ゲスネタですが真顔ですw
帰蝶と駒ちゃんは、十兵衛を挟んで対称的(シンメトリー)な関係として描かれていると思うんですね。
十兵衛と帰蝶が信長の疑似的な両親、つまり夫婦なのだとしたら、じゃあ駒ちゃんは? という妄想です。
参考文献は6話の感想、あの嵐の晩にふたりはです

つまり、こーゆーことです。私の脳内。「十兵衛を巡る女」四象限(私はいったい何をやっとるのだ‥‥w)

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拙文によるこれまでの「麒麟」感想振り返り。

●5月、光秀=麒麟を呼ぶ者というか、「引導を渡す者」なのではないかという考察

●6月、「何をしても褒めてくれる帰蝶」と「桶狭間の勝利後、いの一番に駆けつけた十兵衛」が、信長の背を押す疑似的両親なのだという考察

●長良川の戦い。「王の器たる条件は正直さ」と言い、自分の命を投げ出してでも我が子を討とうとする道三。「敵は高政さま」と突如豹変し、敗れる光秀。今見直すと「本能寺の変」の前奏曲そのものですね。


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