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勝手に月評 新建築2019年5月号

5月号ではすべてで16題からなっており,前半4題を終えると「地域の建築は設計できるか」という特集記事より,12題の地域の拠点が掲載されています.

塚本由晴氏の特集記事「地域の建築は設計できるか」は,今月号の作品の読み方に大きな指針を与えるものだと感じたので,簡単な要約をします.

本記事で述べられているのは,そもそも今現在でも「地域の建築」という枠組み自体に焦点が定まっていないこと,そのため何かとの対比によって補完的に「地域の建築」を浮かび上がらせる手法が取られていたことが書かれています(均質的な「空間」に対して個別的な「場所」を浮かび上がらせた「ヴァナキュラー」や「コンテクスチャリズム」「ゲニウス・ロキ」など).

また,ケネス・フランプトンやアレクサンダー・ツゾニス+アンリ・ルフェーブルの「批判的地域主義」において,大まかにいえばどちらもインターナショナリズムに対する対比を基に論が展開されていることを挙げており,それでもこれら批評家の言うように設計したとして「地域の建築」を標榜することはできず,あくまで批評家側が読解する一種の枠組みでしかありません.

しかし,今日の建築設計では,発注者に「地域の建築」を設計することを求められており,設計者はやはり先に述べられたよう,設計の中に埋め込まれた何かを対比し,「地域の建築」を浮かび上がらせるほかない.ということを述べています.

塚本氏は藤村記念堂に関する記述と,尾道駅に自身が設計に関わっていく中で,「施設」との対比によって「地域の建築」が浮かび上がらせ,「地域」そのものを提案するという提言をしています.施設の計画論には普遍性(どこでも)機会均等性(だれ(に)でも)が想定されているのに対し,地域固有のコンテクストや当事者を核とする多重なメンバーシップという「地域の建築」の根幹が対立していることからです.

今日の建築家はいまだ強固に結びついている「施設」とそれに先行する「制度」という障壁を崩す努力を重ねています.これらを体系化するとき,対比対象を「施設」とすることでより批評言語が大きく育つ可能性があると述べています.

ここで述べられていることは,恐らくそのまま今月号の作品の読み方として受け取っても問題ないだろうと考え,各作品を見ていこうと思います.つまり,「施設」であることからの脱却を試みているのが,今月号における特集作品と見て良いだろうという意味です.

先にも挙がった尾道駅ではまさに特集記事の実践となっています.歴史の堆積によって地域の建築と「なって」いた既存駅舎のコンテクストを受け継ぐ長屋門の構えや,地域との連携を図りながら観光客を受け入れるプログラムの開発することで,多様なメンバーシップを受け入れる駅を実現しています.個人的にこのスケールの駅舎にホステルが併設されていることが面白く感じました.

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駅のコンコースを向島の正面に据えて視線の抜けを確保することで,観光客が駅へ到着した際の高揚感と,瀬戸内の玄関口であることを意識させるデザインとなっています.この作品は既存のコミュニティを崩壊させることなく,かつ少なかった観光客の受け皿をぶつかり合うことなく共存させていることに感銘を受けました.

交通網の結節点としての駅という施設は今,公共や商業だけでなく,コミュニティの拠点として役割を拡大させています.ゆえに今日の駅舎はプログラムが複合的になっています.この作品では,歴代で受け継いできたバトンを現代的に肉付けして適応させることで「地域の建築」となっていると考えられます.

「地域の建築」というものを考えようとするとき,地域の素材の利用,周辺の景色やコンテクストに形態を適応させる,地域の人々を巻き込んだワークショップを行う,地域特有の産業や技術を設計の手法に取り込む等があり,これらの原案を設計者がどこまでやり込めるかという話のように感じますが,一方でグッゲンハイム・ビルバオのような観光産業を主軸に取り入れた「地域の建築」を見ずに語ることは難しいのではないかと感じています.

東浩紀氏による「ゲンロン0 観光客の哲学」※1 では,人間が豊かに生きていくためには,基本的には特定の共同体に属しつつ,ときおり別の共同体も訪れる「観光客」的なあり方が大切であると述べられています,ここでいう「観光客」とはメタファーなのですが,直接的に読むこともできるように思います.

ローカルなコミュニティの形成をサポートしながら,観光客,ようは他者をどのように受け入れるか.このことが「地域の建築」を考えるうえで大切であると感じています.そういう見方をすると,「地域の建築」というものの難しさがよりハッキリと見えてきます.

東氏は,「最初に「素朴」な住民がいて,つぎに観光客が来るという順序もじつは転倒しているのではないか.~~言い換えれば,すべてがテーマパーク化しているのではないか」という,地域そのもののテーマパーク化に関する危惧も述べています.私は尾道駅は,半ばテーマパーク化している地域のローカルさを取り戻し,バランスを整えるプロジェクトだったように感じました.

今月号で取り上げられている作品は,大別すると①地域内の産業やコミュニティ意識を建築として顕在化させる作品②既存にはないプログラムを開発(もしくは組み合わせ)し,地域外からの観光客に焦点を絞りつつ,既存のコミュニティと接続させようとする作品,の2種類があるように感じています.今回私は,②について考えたいと思います.

観光という視点から作品を見ていくと,AIRA RIDGEでは,地域の6次産業化を支えるために複合的なプログラム(ぶどう畑,ワイナリー,ショップ,広場,交流施設)を,主体を分離しながら運営するもので,生産者・加工者・消費者(観光客)をなだらかに接続させるために,市の伝統工芸である紙細工をモチーフとした折り紙状の屋根を連続させる構成を取っています.官民共同のプロジェクトであり,建築に預けている明快な意思が読み取りやすいように感じました.

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私は「地域の建築」というものはひとつの建築によって成立するものではないと考えています.地域の条件にもよりますが,少なくとも地方であればあるだけ周辺建物とのネットワークが大切になってくると思います.

東川町複合交流施設 せんとぴゅあⅡは,公共施設の連鎖的再編を行うことで,「地域の建築群」を設計しようという試みだと感じました.作品として取り上げられているのは単体の建築になりますが,特筆するべきは公民連携による施設機能と利用主体の複合化などの運営方針ではないかと考えています.

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多賀町中央公民館 多賀結いの森は,建築空間と地域住民の力強さによって,地域内のコミュニティ形成のみではなく,地域そのものにエネルギーを与え,外へ広がっていけるような可能性を感じる作品だと感じました.建築そのものは徹底的にローカルな手法(山並みに馴染むような屋根と木漏れ日のような光の操作や,住宅スケールの空間の雁行配置)が扱われています.

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地域のコミュニティと積極的に関わる設計はよく見られるようになりましたが,最も大切なことは,出来上がった建築がどこまで住民たちを外向きにエンハンスすることができるか,だと思っています.出来上がった建築が,地域の住民たちの総意(こういうときの総意はかなり強い)によってPRされることによって,先に挙げた①でもなく②でもない,地域のエネルギーによって外からの観光客を呼び込むという可能性を期待したいなあと考えています.

「地域の建築」は,特集記事にも書かれていたように「なる」ものです.つまりこの段階で良い悪いという批評をしようにもないところが,このテーマの難しいところだと感じました.個人的には建設されて何年かほど経過した「地域の建築」たちが,なおも「地域の建築」足りえているかを検証する機会があっても面白いかもしれないなと思いました.

久木元 大貴

※1 参考図書 ゲンロン0 観光客の哲学 出版社: 株式会社ゲンロン


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