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スパゲティミートソースの思い出

この話をしようとすると、ぼくらの世代の人は、給食に出た「ソフトめん」をあげることが多い。
小学生のぼくらにとって、人気ランキング上位のメニューだった。
どういうわけか、ソフトめんってなんだよ?との論議にすり変わってしまい、そのソースがミートソース以外になかったことは無視されてしまう。

神宮外苑にある国立競技場が新しくなってから、ぼくはまだ一度も足を運んだことがない。
初代国立競技場が取り壊される直前に、フィールドとトイレをつなぐ、使用されなかった地下トンネルがあることが話題になった。
けれども、スタンドの下にプールがあったことは話題にならなかったように思う。

このプール、建設当初からあったものなのかは知らないが、オリンピックのときに造られた競技用プールとは別ものである。
競技用プールのほうは、もう少し信濃町駅寄りにあり、初回東京オリンピック後は神宮プールと名付けられて一般公開されていた。
そこから想像するに国立競技場スタンド下のプールは練習用、調整用プールとして設けられたものなのかもしれない。
とはいえ、初回東京オリンピックの時代に、選手が調整する、との発想があったのかも疑わしい。
このあたり、新旧東京オリンピックの建造物を比較してみると、なかなか面白い研究ができるであろう。
なんなら、代々木公園を発掘調査して、オリンピック選手の残留物か、進駐軍のものかをほじくり返してほしい。

で、国立競技場内プール、たしか「霞ヶ丘スイミングスクール」の名称で、水泳を教える施設になっており小学生のぼくは何年か通った。
水泳を教える、といいながら、とにかくプールに飛び込ませて繰り返し泳がせる式のもので、おかげでぼくは、水泳が嫌いになった。

なにごとも他人にやらされるのは楽しくない。
ぼく自身が水泳を習いたい、と言ったおぼえはなく、水泳教室に入ること自体、やらされた、と記憶されている。

それでも、たいていの場合、ぼくはひとりで出かけて、ひとりで帰ってきた。
日大三校前から神宮球場のあたりまで、都営バスの路線があり、それに乗ればよいだけの通い道だったので大変なことはなにもない。
ただ、帰りみちはバスの揺れが眠気を誘い、何度か乗り過ごした覚えがある。

なにか用事のついでがあったのか、たまに父が迎えにくることがあった。
父が迎えにくると必ずといってよいくらいの頻度で、駐車場横のレストランに連れていってくれた。
その店の名前も、どのような料理屋だったかまったく記憶がない。
もしかしたら、喫茶店だったかもしれない。
いずれにしても、小学生のぼくがメニューを見ても知っているものは、ミートソースしかなかった。
父は、好きなものをなんでも食え、と言ったけれど、ぼくは毎回スパゲティミートソースを注文した。
学校で食べるミートソースとは明らかに違った味だった。
けれども、それは何が違っているのかは判らず、とにかく旨い。

ただ、必ずといってよいくらいに父は、お母さんにはナイショだぞ、と言った。
幼かったぼくは、いまの今まで内緒にしていた。
なんでナイショだったのか、今はもう確かめるすべがない。

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