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入院の記④

経鼻チューブが入ったまま、眠れぬ夜を過ごしました。朝になり、水を飲むように勧められましたが、やはり喉が気持ち悪くうまく飲めません。

そんな事情もいさ知らず、点滴とは逆の腕に針を突き刺されて採血され、別のフロアで腹部のレントゲンを撮るため、看護師に車椅子に乗せられました。忌まわしい経鼻チューブのほか、点滴が2つと、尿道カテーテルも装着されたままでした。チューブだらけの体とはこういうことをいうのかと身をもって思い知りました。

レントゲンを撮るとき、技師から私の名前と生年月日を尋ねられ、経鼻チューブが動かないよう、ものすごくか細い声で告げました。帰る時、車椅子を押してくれる看護師が元気よく話しかけてくれるのに、はい、はいとしか答えられない私自身に失望していました。途中の廊下の窓ガラスに映る哀れな男の目は死んでいました。

病室で2時間ほど生ける屍と化していると、医者が問診にやってきて、「では鼻と尿道のチューブ取りましょうか」と、待望の一言を聞くことができました。医者は鼻の穴から出ているチューブの先を掴んで、一気に引き抜きました。チューブから漏れ出た胃液か何かが口腔の中に飛び散って、ゲホゲホと咳き込みましたが、喉のあの不快感はもうありません。この後尿道カテーテルも看護師に取ってもらいましたが、詳細は略します。

これで私に繋がっているチューブは点滴だけになりました。部屋を出ていく看護師に明瞭な声でお礼を言うと、随分と元気になりましたね、と少し驚かれました。経鼻チューブがなくなっただけで、絶望の淵から、希望の光の大地に降り立った気がしました。

その後は手術跡が痛むのと、時々37度台の熱が出るほかは、大した症状はありませんでした。入院して2日後には食事も普通に摂ることができました。時間だけはあったので、持ってきたKindleで、有吉佐和子の『華岡青洲の妻』を読んでいました。

全身麻酔のおかげで、手術は全く苦痛なく受けることができました。それを世界で初めて実用化した華岡青洲とはどのような人物なのだろうとふと思い、名作とされるこの本を読みましたが、主題はあくまでも嫁姑間の烈しくも背筋が寒くなるような関係性であり、私の手術跡がキリキリと痛む作品でした。

退院は入院して4日後の朝でした。医者からの指示は簡単なものでした。肉体労働でなければ退院後普通に仕事して大丈夫だが、体調と相談して判断してほしい。入浴はしばらく控えてシャワーのみとすること。ほか食事制限とかは特になし。

命の危険があったという病状の割には、あっさりと退院となりました。荷物をまとめ、病室を出る時も、看護師の一人に軽く声をかけたのみで、そのまま一人会計に向かいました。会計も、自動精算機で行う方式でした。入院時の手続きはものすごく時間がかかったのに、会計はあっという間に終わりました。DXの全体計画を立案して会計が優先度高の施策という判断があったのか、とりあえず目についたところからDXしたのかはわかりません。

病院の外のタクシー乗り場に向かいました。5日ぶりの外気は暑かったですが、同時に爽やかな風が吹き、敷地内に植えられた大きな木の鮮やかな緑の葉がざわわと揺れていました。私の生殺与奪の権が委ねられていた人工的な空間から解放され、自分が生きていることを改めて感じました。

ー終ー

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