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美は「浄化」でもあってほしかった。 三島由紀夫『金閣寺』

小説『金閣寺』の主人公溝口は友人柏木と月光の下で尺八を初めて吹く場面がある。金閣寺、尺八、月という芸術的に美しい情景が読者に浮かぶ描写だ。しかしこの主題は「美は怨敵である」という。

『金閣寺』は実際に起きた金閣放火事件に基づき、三島由紀夫が独自に文学で表現した有名すぎる小説だ。

主人公は戦中戦後の禁欲的な禅寺の修行僧として育ち、吃音を恥ずかしく感じている溝口。

内飜足でまっすぐ歩くことができない柏木に大学で出会い、境遇に屈せず道なき道を突き立てる気性に刺激を感じている。

やがて溝口は尋常な発想ではない「金閣を焼く」ことを思いつき、「美」が怨敵であると考えるようになる。

一般に「美」とは、視覚的な綺麗なさま・心地よいさま・調和しているさまであったり、道徳的心情に多くの人が望ましいと思うような状況、そこから派生する憧れ・羨望・夢・普遍性など、ポジティブな印象を持つ。

しかし、溝口にとっての「美」は私が感じているイメージと反対に、異質で不快で不気味であった。

初め「これが放火犯の思考になっていくものなのか」とも思ったが、読み進めていくと暗黒な感情やコンプレックスの醸造物であることに気づいた。

憧れは嫉妬にもなりうるし、愛は憎しみにもなりうる。そういった普遍的なものの二面性を「美」で示しているように感じられた。

柏木は溝口にとって、自らの暗い内面を打ち明けられる数少ない友人だ。社交的ではない溝口が、何も不自由がない同級生より、脚の不具がある柏木に積極的に近づき、予想以上の激しい内面性・思考・癖に出会う。

友情といっても、ドラえもんとのび太くんの関係や、磯野カツオと中島くんの関係のような、男同士フレンドリーにやさしく傾聴するような友情ではない。やさしさ抜きに吃りとストレートにぶつかって来て、異性への興味を若者ながらに晒して煽り、生来変えることのできない身体的なコンプレックスを利用して他者を飲み込んでいく。完全な悪者ではないが、時に危険でサイコパスな理解者であり、単に突き放すのではなく、若い時の多感な関心を自分にも向けてくれているという心の居場所があった。

溝口から見た柏木は、芸術的な度量や繊細な感受性にはさほど関心がないように思えていたが、月の美しいある夜に突然溝口のもとへ尋ね、金閣寺で尺八を奏でに来る。叔父の形見で譲り受けた尺八を余らせていると溝口へ差し出し、吹き方を教える。溝口は見たことのない風情の柏木にはっとし、音の出ない尺八に懸命に息を吹き込んでいく。

柏木は三ノ宮近郊の禅寺の息子で、誰よりも自分の脚の不幸を理解し、和解し、人から哀れに思われることも嫌いだったが、それを克服した気性の強さで、溝口よりも人生の遊びを知っている。

柏木を深く知るにつれてわかったことだが、彼は永保ちする美がきらいなのであった。たちまち消える音楽とか、数日のうちに枯れる生け花とか、彼の好みはそういうものに限られ、建築や文学を憎んでいた。
三島由紀夫『金閣寺』第六章

苦しみからの逃げ道を知っていて、大衆には理解されないであろうこともわかっており、その意味でも社会での居場所を作り出せる生命力がある。

人生を模索していた溝口にとって、柏木が尺八や生け花を嗜むのは意外であっただろう。

私が気に掛かったのは、溝口の方だ。

溝口が尺八で音を出そうとしている最中、肉体的努力をすることによって、日常の精神的努力を浄化するもののように思われてきた…という文を読んで、私はほっとしたのだった。

「なぜ私がほっとしないといけなかったのだろう。」あとから客観的にそう思った。

正直、ここまで読んでくる中で関心の波があった。三島の言葉の表現力には初めから興味をそそられた。
でも溝口の人生と思考に驚き、異質を感じすぎてしまい、気持ちがすっと冷め納得できない感情が私の中に湧いてきていた。

この男の話を読むのはもう中断しようかと思うこともあった。もちろん生きづらさに共感しうることもあるけれど、読んでいて辛い気持ちもあった。

しかし、この溝口が尺八の神秘的な音色に浄化の兆しを感じる瞬間が存在したということに私が安堵したのである。

溝口曰く「美が怨敵」というからには、美は憎しみ一色なのか?というと、そうではないだ。

むしろ魅了されるからこそ、自分との決着をつけたい。勝てる試合ではないけれどもひょっとしたら?というスリリングが好奇心を掻き立ててくる。そういう心理なのかもしれないと見立てをした。

子供のころの溝口は、父から聞いていた金閣にいざ実物に直面すると、想像の中の金閣の方が美しかったという原体験から始まる。

吃りと暗鬱な性格のコンプレックスと決着をつける方法を探している溝口には「美」はずっと自分自身と対峙する象徴なのである。

美は金閣でもあり、戦後の社会でもあり、なぜ生きるのか?という問いでもあり、社会からみた模範的な個人のこうあるべし姿でもあり、大衆からはじき出される自分の復讐でもあり、決して手に入れることができないギャップなのでもあるかもしれない。

美という光から同時に存在する影の部分を私たちは見落としがちだ。

溝口は果たして普通の美しいとされる芸術のようなものや情景や人の心の癒しなどはどう感じるのだろうかとも思っていた。美に心を開き、コミュニケーションする余地があるのかの手がかりでもあるように感じられた。

すると「浄化」という表現を見つけたので、ほっとしたのだ。

美は二面性がある。陰影があっていい。ただ、やはり美は浄化でもあってほしかった。これが私の本心だったのだと気づいた。

やはりこの男にとっても美は心の琴線にふれるものであったのだという確認ができた気持ちでもあった。

後日に柏木は吃りをからかういつもの姿に戻っており、溝口も認識が戻るので浄化の効果は持続しなかった。

しかし、この月夜の尺八の場面があるのとないとのとでは、私の心象は変わっていただろう。

三島の意図はわからないけれども、「美が怨敵である」その心は、自分がどうしても越えられない・手にすることができない・凌駕することができないものに対する欲望で、自分の存在意義を肯定してくれる何かへの追求でもあったのかなと感じられた。

初めて読了した所感だが、再読していくと変容していくとも思われるので、ありのままの所感を書き留めておく。

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