見出し画像

『ニコマコス倫理学』第10巻-快楽の諸問題と幸福の生

哲学初心者の僕がアリストテレスに向き合う。今回はいよいよ最終の10巻を読む。快楽や苦痛を考え、そして幸福とはなにか、知性とはなにか、現代にも通じるいろいろな矛盾を考えさせられた内容だった。

内容は、快楽、幸福そして知性に触れて、学びや教育から政治に至っていくという流れだった。つまりは次巻の「政治」につながっていく壮大な序章だったということが最後にくる内容だった。それだけ政治の世界に求められる前提の深さを感じたわけだが。

特に印象に残ったのが教育の部分だったので、その点に絞って書く。
徳にしても善にしても、やはり実践が伴ってこそであり、言葉だけでは不十分である。ただ、そういった徳や善には幼い頃からの教育が求められる。それが習慣となって行動になっている状態が求められるからであり、そのためには法も必要となる。

経験だけではなく、それぞれの専門的な教育が必要となるが、個別の事柄に最もよく配慮しうるのは、どんな専門家よりも普遍的に知っている人、つまりはすべての人にとって何がよいか、あるいは個別の人にとって何がよいかをよく知っている人であるとしている。もろもろの知識は普遍にかかわっているからである。
そして、それらを行動付けていくために法が必要なので、立法の知識も求められ、その習得のためには、経験や弁論術はもちろん重要ではある。しかし、芸術作品を正しく理解・判断するためには、何によって、どのような方法で完成されるのか、なにがどのように調和するかを理解していることが求められるように、政治にも、そういった知識が必要である。そのためには、これまでに蓄積された資料や先行の個別事例を通覧し、最善についての研究をしていくことが求められる。

■わかったこと・感想
長いアリストテレスの旅が終わったと思ったら、まだ緒についたところということで、まさに膨大な旅路の入口に立ったということに気付かされた。

先行の知識・研究を理解し、それらに基づいてベストを目指す(実際にはベター)という活動は、まさにアカデミックの世界の基本姿勢であり、源流はここにあるのかということを考えさせられた。
一方で、中で触れられているように、普遍的に知っていることの重要性を触れている。それによって、通底する共通の普遍性に気づくことができるからだ。膨大な先行研究を通覧していくことは大事ではあるが、それらを全て追っていくことは、現在は膨大過ぎて一生を要するし、どんどん細分化されていかざるを得ない。「自分の専門分野ではない」という言葉を頻繁にアカデミックの世界で聞くが、この言葉に対する疑問が募る一方だったが、それも仕方ない結果ではある。

だからこそ、様々な分野の人たちとの様々なレベルでの交流、研究に加えて実践といった、アリストテレスが触れている行動の重要さが見えてくるのではないだろうか。

よろしければサポートお願いします。日本各地のリサーチ、世界への発信活動に活用して参ります。