私のコミュニケーションレベルの体験から―コミュニケーションの段階と方向性

私は、幼少期から、表面的には例え真逆のことを言って対立しているような人たちの両言い分も、大抵、「全く同じこと」を言っているようにしか思えなかった。

わかりやすいあからさまな例でいえば、例えばだが、
一神教と多神教の宗教対立などであっても、本当に例えて言うなら、
A「カブトムシには角があるんだ!」
B「いいや、カブトムシには一本の角があるんだ!」
A「だからカブトムシには角があるんだと言っているだろうが!」
B「だからカブトムシには一本角があると言っているんだなぜわからんのだ!!」

…というような言い争いをしているかのようにしか感じられなかったのである。

全く同じことを言っているのにどうして対立しているの?喧嘩しているの?

これは、我々、長年、かなり、本当に深く、これによって苦しんで来た。
「通常の人間の生活の営み」が理解できないほどに。

また、逆に、(これはほぼ個人同士の家族関係や友人関係などなのだが)表面的言語的には全く同じことを言っているのだが、私にとってはまるで違う真逆のことを言っているとしか聞こえない時もあった。

今思えば、あの頃は、恐らく五感はほとんど聴覚と体感覚で生活していた(視覚情報はほとんど頼っていなかった。そして私は、この記事では省くが視覚=顕在意識の感覚、聴覚や体感覚は潜在意識の感覚であると説いている)。
それでいて、脳のキャパシティは非常にいっぱいいっぱい状態であったとも思われ、言語理解という面については、恐らく言語的な理解力は高くはなかったのではないかとも思う。そもそも言語で聞こえてくる言葉よりも、潜在意識から聞こえてくる言葉の方がよっぽど、「耳から聞こえる言葉」かのように聞こえ、認識していたのだから。
…もしかしたら耳から聞こえる言葉(言語)の処理回路も、少し遅かったのかもわからない。


実を言えば、今もそうである。

ただ、今は、いろいろな意味で訓練を重ねて、口から言語として発される言葉と、非言語のもの、また、顕在意識の言葉と意識下の言葉、潜在意識の言葉、内臓や身体の言葉、魂の言葉を聞き分け、どれがどこから発されているものかも判断できるようになっている。

その中で、わかってきて、言語化できるようになったことがある。

表面的な言語では、まったく真逆のことを言っていて、その当事者たちお互いは、相手が自分とまるで真逆の立場にいるかのように実際感じていて、対立したり喧嘩したりしている場合がある。

しかし、これは、それぞれがそう言っている理由、どうしてそう言うのか、何かなぜそう言わせるのか、にアクセスすれば、実はすべてが同じところから出てきて全ては繋がっていることがわかる。
ここは確かに説明しづらいし複雑、長くもなるし語弊も招きかねないのでこの記事では言わないが、しかしどうやら、私は、幼い頃から、表面的な言語よりもその下にある過程の計算式や、どこからどんなエネルギーがなぜそれをそう仕向けているのかというところを、強く身体(体感覚)で感じていたようだ。
そして、幼い頃、実際それを表に出そうとしたり拙かっただろうが言語表現して聞こうとしたことすらある。
しかし、わかってもらえないか、わけのわからない子扱いをされるか、成長してからも「深く難しくなんでもかんでも複雑に考えすぎなんだ」とばかり言われてきた。
それかもしくは……本音を私に読み取ってもらえた相手の潜在意識が私に呼び出されてしまって、トランス状態に陥り、相手の顕在意識は私を相手にもしないのに、何かにつけて潜在意識に頼られて問題を持ち込まれたりするか。…だった。

私は何一つ深くも難しくも複雑にも考えていない。私にとってはむしろ言語によって表面に出てきている方を聞き取り理解することに労力も集中力も使ったし、それが聞こえてくる・理解できる前にそちらの方ばかりどんどん感じていた。
今だからこそ言えるような言い方をすれば、ひとは例え何気ない直感的な選択であっても、潜在意識レベルにはその決断結果に至るまでの膨大な計算式(理由)がある。私は、自分の内側に対してもそうだった、自他どちらにしても、この潜在意識レベルの計算式が、ある程度の部分まで自覚もされており、しかもこちらの方が瞬時に入ってきていた。
更に、表面的な言語をがんばって聞き取り理解しても、そちらの方に常に常に本心でないものや矛盾や、その人(その言葉を発した人)がその人自身を邪魔するような本人の中での対立を感じた(当然本人はわかっていない)。

その上、私にとっては表面的な言語に対応して通常の人間の対話を行うにはスピード的にまるで間に合わなかったし、その上に「内容がない」ため、表面的なものに表面的な言語では「応えようが」ない。

また、その人の顕在意識が潜在意識を制圧・威圧しようと上からフタを押し当てていることを感じたし、実際に私が頭の上からフタを押し付けられているようにも感じた(最後のこれをこういう感覚で感じていたのは、交代人格であった頃の私個人だったため、今から3,4年ほど前の話ではあるが)

だから、私にとっては、顕在意識の表面的に出される言語として現わされるものの方が、よっぽど「深く複雑で難しいもの」だったのだ。

顕在意識を位置的に上、潜在意識を下という言い方をするなら、恐らく私は、下側(潜在意識側)から物を見ていたのかもしれない(実際、成長してから表面的な交流用に顕在意識部分だけで作られた交代人格たちにはそう言われていた)。
つまり、見ている角度が他の人たちと反対側であったから、だから、顕在意識でのやり取りの方が深い(自分から遠い=複雑で難しい)ものだったのだ。


表面的に言っていること(これは今でも実は私にとっては大分聞き分け能力を駆使して異国語を聞き取り翻訳するような感覚を要するのだが)が真逆の言い分であっても、その下にある目的や、その理由が同じであれば、またなぜそういう”言い方”になっているのかの経緯がわかれば(ほとんどの場合、言語を言語として理解すると同じかそれより前にわかるのだが…)、私にとっては結局まるで言語的にも同じことを言っているように聞こえてしまう。

今、SNSなどで、身体的アプローチ、心理的アプローチ、ホリスティックアプローチ、などと、深い部分まで扱うために領域が広がってきている。
その中で、整体師などは非常に良いことを言う。…が、整体師さん(身体的アプローチ)の表面的言い方では、心理的アプローチの人の言っていることはこうだけれど…というような書き方が良く見られる。
いやいや、実はあなたと全く、それこそ驚くほど同じことがわかる人たちが増えてきたんだなと思う程にあなたと同意見だからこそ、心理の専門家としてはああいう言い方をするのですよ(社会的に心理方面からはその言い方しかするわけにいかないということも含め)、と思うこともよくある。
これはほんのごく一例なのだが。

と、同時に、これは真逆の例で、私のクライアントAさんとクライアントBさんが、それぞれの個人セッションの時に、「~ではこういうことなんだね。じゃあ、こう考えたらいいんだね、こうしたらいいんだね」などと、表面的にはA、B両者ともほぼ同じことを言ってきた時に、私には(なぜか)、両者がまるで違う、別々真逆の理解をして真逆のことを言っているようにしか聞こえないことがある。今ではこれは私の中でもなぜそう聞こえるのか、理由がわかるから大丈夫なのだが、こういう場合も、実はその彼らそれぞれの中での目的や、そう言語化されるまでの過程、なぜ、何かどうしてそう言わせたのかが、真逆の場合なのだ。この場合は、容易にどちらのクライアントにも同じ対応をしてしまうと、非常にまずいことになる。
心理学は確かに行動科学であるが、しかし、セラピストは、クライアントから同じものが出てくれば良いのではなく、その下にある過程や受け取り方や潜在的にそれを支えている認識や信念が適切なものであるか、目的がその人の人生にとって適正な方向にあるか常に視る必要がある。同じ症状や同じ言動行動が出るクライアントに、一辺倒で教科書的な同じ対応をしても、決してクライアントたちは同じ道を辿ることはない。表面的に全く同じことを言ったり全く同じ症状に見えるものが出てくるクライアントであっても(私にはこれがまず同じには視えない…のだが)、AとBで真逆の対応や措置をとる必要があることもあるのだ。

そう考えると、私のこの感覚(性質)はセラピストとしては役立っているともいるが、
案外、これはケーススタディをするようなときや、臨床家の話を聞いたりする時にも困ることであったりする。
専門家が2人のクライアントを比べたとき、
専門家「この人とこの人は同じ症状が出ていて…」
私(…?いや、それは明らかにまったく別アプローチが必要な全然違うケースですよね?)

専門家「この人とこの人は全然別の主訴で見えられて」
私(…その人とその人、全くおんなじこと言って同じこと訴えてますよね。ああこういう人生脚本で恐らくこういうプログラムで苦しんでいるんだろうなあ。しかし基本的に方向的にはセラピーアプローチは一緒だ。しかしもしAさんの方はもし身体的アプローチの方が合うタイプであれば、表面的にはそっちからやっているように見せた方がこの人には楽に効率的に行けるかもしれないな)

…などという場合がある。


まあ、そういう話はどうでもいいのだが、
ともかく、

表面的に見えているものや酷く狭義で一面的な表現しかできない言葉を見たり判断する方がよっぽど深く複雑に考える必要があり難しいのに、どうして人々は表面的に出てくるものだけが同じに(似て)見えたら同じと決めつけて、表面的に違うように見えたら(それは”その人に違うように見えたり聴こえたりしているだけ”なのに)違うと決めつけてまるで敵のように思いこんだりするのだろう

どうして言葉などというものは本当にごくごく一部しか表現できず嘘をつくことしかできない、その上にそもそも何をどう言おうと(言葉自体の内容的には)何の意味を成すものですらないのに、人々はみんな猪突猛進にその言葉の意味をわかったつもりになって決めつけるのだろう
(今でこそ私は専門家としてそういうことをしているが、どうやらその頃から、私は言葉の表面的に意味するものよりも、その言葉が出てくるタイミングや脈略やその言葉の出され方などを外側から包括的に聞いていたのかもしれない)

…などとばかり、ずっと感じ、こわかったのだった。


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