とあるセッションにて―初歩、初心が役に立つ時

私のクライアントさんの中に、
本人は本気で自分の人生・問題と向き合って解消していきたい、セラピーして欲しい!と口では言っているのだけれども、実際のところカウンセリングの時間にもセラピーセッションの時間にも、どうにもまだうまく集中できない人もおられる。

今日のクライアントさんもその1人だが、
このひとは、私の専門が催眠であることを知っているし、催眠療法を望んでいるひとりでもあった。
ただ、私はこの人にまだ、(とはいえ実は本人がわからないくらい浅い範疇での催眠セッションや、深い催眠下でのカウンセリングを殆ど一切しない催眠による身体アプローチ法などは行っているのだが)しっかりはっきりちゃんとした「催眠療法セッション」は行っていない。まだ、その段階ではないかもしれないと感じているため。そして、日本語での会話自体はしっかりできるにはできるのだが、集中力や、言葉による暗示を(しかもオンラインで)通すには、少し難しい部分があるかもしれない、という面を感じるクライアントさん。

その代わり、身体的アプローチ法や、認知行動療法的なパターン改善に関しては、彼女自身、なかなか認知行動療法のホームワークや習慣化をゲームのように日常に組み込ませてくるなど、今のところ合いそうなので、現在はこのような方面から少しずつ進めている。

ただ、なかなか一筋縄で行かないのがカウンセリング。
この人、まあ私とセッションを始めてからまだ年数が浅いということもあるのだろうとは思うが、その割に私とのラポールが強く(私はどうやらクライアントさんとのラポール形成が早く、深い)、
カウンセリングの日の度に(いや、実をいえばセラピーセッションの日や身体アプローチのためのセミナー的ワークの日も)、自分の日常生活であったことを逐一、全部、まるで学校から帰ってきた小さな子が今日あったことを全部母親に報告したがるかのように、報告して来ようとしてしまうのだ。

当然、それはその日の出来事だけではなくて前回のセッションからの全生活、そしてそこで思ったこと感じたこと(言いたいのはやはりそこが大きいのだろうが)、全部を滝のように話そうとしてしまう。…しかも、今日の昼の食事内容など、そういうところから始まってしまう。

セラピーしていくためにも、セラピストに全部報告した方がいいだろう、しなきゃ、知っておいて欲しい、ということもあるのだろう。
ひとりで生活しており、話せる人が周りにほとんどいない上、愛着形成の問題で人との距離感をまだうまく図れず、うまくいかないというところから、信頼できるセラピストにまるで母親におんぶにだっこのように話し出してしまう、ということもあるのかもしれない。
普段の苦しさや不安が一気に溢れたいが出し方がわからないのでこういう出し方になってしまう、というところもあるのかもしれない。
人生や普段の日常でも困ったことや苦しいことはたくさんあるのかもしれないが、それをついまだ向き合えず否認・無視してしまって話すべき(自分の話したい)ことに気付けず、そういう出し方になってしまうのかもしれない。

ただ、本人は私を「セラピスト」と知っているしそのつもりで「セラピーをして欲しい」「人生の問題を解消して好転させていきたい」というところが目的のようなので(ただただひたすらに話を聞いて欲しい、という目的で来ているのなら別かもしれないが)、やはりどうしても限られた時間枠の中、何とか手を変え品を変え方向性が出るように仕向けてはいるのだが。
しかし、そうやって何とか、本人にとって何となく方向性が出てきて深い気付きや実のあるカウンセリングセッションになったとしても、セッション終わりごろの時間になるとまるでわざと図ったかのように(顕在意識での自覚はもちろんないが、無意識でやはり何か彼女のプログラムが発動するのだろう)、まるで子供が学校から帰るなり「ねえねえあのねー!!」とやり出すかのように、ぶわっと話し出してしまう。
終わりの時間だからとわかっていてもそうなるので、かといって精神分析のように無理やり中断してしまうとそれこそ彼女のラケット感情が一気に発動してしまうので、セッションのクロージングも非常に難しかった。
(というより、終わりの時間になる度に、だからこそセッションの内容の意義や濃さに拘わらず、「自分はまだ何も話せていない」と思う条件反射パターンになっている部分もあるのかもしれない。そして、自分の人生を自分軸ではなく「振り回される」パターンで来た人は、「(周り・外側から貼り付けて身につけてきた本当は他人である)自分自身に振り回される」ということをしてしまうため、悉くの場面で手を変え品を変え何とかして自分で自分を振り回すパターンを発動させてしまう。)

これが重なってくると、セラピストとして、ついつい、迷いや無力感が生じてきていた。体制を毎回立て直して向かおうとしていたが、立て直しきれているのかどうなのか、何やら吹っ切れない期間があった。

今回、ふと思い立ち、「どうやってももやもやするかもしれない、自信がないなら、いっそ教科書の型通りを試してみよう」
思いついたのは、エリクソン催眠のワークのページ。

…というのも、ふと思ったことが、私は画面を見ることが負担になるしいずれにせよ画面で相手を観察することは難しい(寧ろ視覚情報が邪魔になって他の面での鋭さが落ちてしまう)ため、そしてこのクライアントさんは実際それを良く知ってもいる人であったため、音声通話のみのオンラインセッションであった。
このクライアント、毎回、話の収拾がつかず四方八方に飛び散って取っ散らかってしまうという特徴があるわけだ。
ヒトというものは、自分の心に対する扱い方や傾向・習慣と、身体に対するそれらは驚くほど比例する。私は、それを利用して心身アプローチを使い分けたり心のアプローチのためのヒントをクライアントさんの身体の特徴や習慣から得たりしているのだから。

ということは、もしかしたら凝視法は役に立つかもしれないと思いついたのだった。
つまり、話が四方八方に飛び散るこのクライアント、話している時、目線もあちらこちらバタバタしているのかもしれない。ということは、視線・焦点を落ち着かせれば、話も落ち着く可能性がある。音声通話でやっており、彼女の目線を見ているわけではないので、あくまで可能性だ。
…だが、やらないよりは断然やってみる価値のあるケースだった。

かといってわざとらしく催眠の一点凝視法を使おうとすれば、構えが生じるし、彼女としては催眠に入るのだと思ってしまうし、こちらからも流れとして普通の会話はできず催眠に入れる流れしか取れなくなってしまう。

というわけで、こんなことを試してみたのだった(話の内容は一部変えている)。

今回も、セッションが始まるなりうずうずむずむずした雰囲気になったため、一点事務的事項を伝え(彼女自身も先に伝えて欲しいと言ったので)、あんなことがあってこんなことがあってという雑談を数分受け入れてから、

T「なるほどそうか。では…今日はカウンセリングであるから、この時間で有意義な、〇〇のそう在りたい姿、そうなりたい人生、これを作り上げるための時間として、自分の時間枠を有効に使えるようにしていこう。そうしたいんだろう?」
C「うん!」
T「ようし。では…今、〇〇の人生、目の前には、ありとあらゆる選択肢がある(こういう話は今までもしていたので違和感がない)。」
C「うん。」
T「今日のこのカウンセリングの時間も、〇〇はどう使うこともできるわけだ…」
C「うん…」
(実はここ、後から、今思い出して書きながら、3回以上のイエスセットになっていたことに気付いた。無自覚にここまでやっていたから、その次の流れも、壁ではなくスケジュール帳だったのにスムースだったのかもしれない)
T「ようしよし、そうだそうだ。ではそう、今そうやって目の前の何か眺めているその辺りに、その壁に、何となく見ていたくなる一点がないか?」
C「うん、そうだね。今ね、スケジュール帳、ぼーっと見てた。」
T「ああやっぱり。ではそのスケジュール帳の、なーんとなしに見ていられるような一点を、ちょっと見てみるか、何となくじーっと見てもいいし、ぼけーっと眺めていてもいい」
C「あー!何か仕掛けようとしてるー!」(彼女は私が催眠療法士であることをよくよく知っているので、すかさず楽しそうに茶々を入れてきた)
T「いやいや(笑)別に何も仕掛けていない。ただ、〇〇が何かをぼーっと眺めているなあと思ったから。」
C「えー、そんなことわかるの、なんでわかったの?!」
T「ああ、それはそのくらいは、わかる。」
C「すごーい!」
(実際、序盤での会話で内省に向かっていたから何かをぼーっと見るともなしに見ていることくらいはもちろんわかるのだが、この会話でなかなか良い被暗示性強化とすることができた)
T「(笑)じゃあ、その楽などこかを、そのままぼーっと見てみようか、じーっと見ていてもいいし、ぼーっと眺めていてもいい。その一点を見ながら、今日は話をしてみようか。」
C「うん。そうか私は今日は、目の前の雑巾、あ、雑巾じゃないけど台布巾を見ながら話をすることになるのか。(笑)」
(…なぜスケジュール帳から布巾に変わったのだろう…恐らくそちらの方が楽に見ていたい感覚だったのだろうな。)
T「(笑)そうかー…。…うん、では…〇〇の目の前には、あ、雑巾ではなく、"人生の”目の前に、な?いろいろな選択肢があるんだ。その中で、ひとというのは、一挙手一投足、必ず目的があって動いている(こういう話も何度もしていたため、お互い共感しやすい)。…(中略)…
その中で、このカウンセリングに来て、〇〇が自分のこう在りたい姿、こう在りたい人生があって、来ているのだとしたら、この時間、〇〇は…例えば自分のそういう人生のために何に向き合いたいのか、ということを話すこともできるし…、今日常で自分が困っていることを話すこともできるし…、こういう人生でありたいのだけど、そのために今問題となっている、そんなことを話すこともできる……」


私としては、彼女のとめどなく出てくる中から出てくるものもあるだろうと思うため、最後のような狭義のダブルバインドで方向指示してしまうのは少々…というところもあったのだが、しかしセッションというものは時間が限られているものでもある。
しかし、恐らく結果的に、これは非常に効果を齎した…かもしれない。
どんなに少なくとも、通常であればこんな聞き方をしても彼女からは質問には答えられず、自分ではよくわからないまままたとっ散らかる方向へ行ってしまうのだが、今回はなんと、「…あのね、こう思っていることがあって…」
と、自分自身と向き合うために非常に本人の中で意味があるであろうと思う題材を、するっと出してきたのだ。

そして、実際ずっと布巾を見ていたのかどうかはわからないが、しかし少なくとも私の耳と感覚で感じるところではずっと無理なく暗示に身を任せたままじっと同じ一点を見ていたように感じるほど、驚くほどセッション時間中、ゆっくりと落ち着いて、おかしな内省ではなく、カウンセリングをなかなかカウンセリングらしく使うような話をすることができた。

そのまま少々、会話をしながら暗示も入れ、少しばかり認知行動療法も入れ、一番感動したことには、何と時間ぴったりに、「ではここまでにしよう。続きは次回にしよう。」とクロージングに成功。
今までは、「続きは次回に」という言い方をすること自体、危機感があった。
ただ、「終わりだ!」と彼女が思ってしまった途端(恐らく視点も台布巾から離れたことだろう)、一旦また勢い込んで始まりそうになったのだが、これが全く関係のない雑談ではなく、認知行動療法のセッションで準備して行くと良いと言った小物を手に入れた、というような話で、「そうか、では次回認知行動療法のときに、うまく使っていけるように相談しよう」と、切り上げることができた。
私にとって4分の延長は延長でも何でもない。特にこのクライアントさんは、今までにどうやら複数の場所でどばーっと何時間でも延長して出しては内省にも自己開示にも至らない、という癖がついてしまっていたため、数十分でも余程延長が激減したと言える次元だった。
延長してとっ散らかればその分、時間内で本当に実のある気付きや学びがあっても、それを自分で自分の中から忘れ去ってしまう(終了時間になってそれを始めるクライアントさんは実は複数いるのだが、もしかしたらそのため…自分に向き合わない、大切な体感の気付きを見ずに、握りしめずに済むためのゲームでもあるのかもしれない)。
だからこそ、クライアントさんが内容をしっかりと自分の中に浸透させることができる程度の時間枠で予約をとるし(実はこのクライアントさんは、ご本人の要望通りにとってしまうと逆効果と判断し、回数も1回の時間も減らした)、あとはセラピスト側も…、ゆっくり、じっくり、着実に、ひとつひとつ、一歩一歩、の方が、最終的にはゴール到達は早いのかもしれない、と、信じて。

そうだった。どんな分野でもそうだ。
基礎が役に立つのは、やはり自分にとって難しい壁(扉)が来た時なのだ。

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