「ねばならない」潜在思考/潜在パターンを利用する・崩す

~ねばならない

という信念(潜在認識)は、自分自身の人生(最近の流行りの言い方ではいわゆる”自分軸”)を失うに非常に大きな要因のひとつであるが、

一番怖いところは、
あまりに当たり前のように身に染み付きすぎていて、自分で気付くことがひどく難しいことである。
その上に、中には気付くことのできるものもあるため、「自分で気付ける(気付くことができているはず)」感覚が一緒になってしまい、気付いていない部分の「ねばならない信念」が、日常や人生の至る所で炸裂し続けて自分の人生を左右してしまっていることである。

自分の生きづらさの前提が「ねばならない」思考から来ている!と気付いても、実はそのまたそれ自体の前提が「ねばならない」から来ていたりする(というより大抵そうである)。
そして、それを自分でとろうとすると、それをするため、もしくはしている最中で、また「ねばならない」にとりつかれており、それに気付いていないでどんどん自分を鎖で縛りあげてしまい逆に益々苦しくなる、ということも起こる。


本日の記事は本当に呟き程度のつもりなのだが(その分、語弊も多いかもしれないが)、
セラピストもそうである。

セラピストは案外、というよりも尚更、というべきか、
セラピスト、という立場上、「ねばならない」を、持っておら「ねばならない」面がある。
仕事をしている時、セラピストとして活動している限り、セラピー枠はセラピーとしてちゃんと動いて(機能して)いくよう運ば「ねばならない」。
クライアントの前で、セラピストはセラピストであら「ねばならない」。

これは、前提としては当たり前なのだが、実は、この前提自体が実はセラピストのセラピーを縛り上げてしまっている、場合によっては命取りとなっている場合がある。
この「ねばならない」が、クライアントの潜在意識とどこかで繋がってしまっており、寧ろセラピーを妨害する根深いプログラム(非常に深い部分での潜在的心理ゲーム)となるのだ。

言葉でダイレクトに表現するには非常に際どい難しい話になるので、いくら文字数を費やしたところでどの道、非常に語弊が多いだろうと思う。
私はこれをしばしば、「must」と「should」は違う、という言い方をしたりもするのだが、これでもやはり語弊がある。
私の言う「should」の方のニュアンスを、言葉で伝えることができないからだ。

だが、セラピストのこの前提が、この「must」「ねばならない」(そしてセラピスト個人の心にあるプログラム)から来ているものであると、これは潜在的にクライアントにも伝わり、クライアントに緊張を生じさせ、クライアントが「安心安全を学ぶ」という、セラピーの何よりの目的を遠のかせてしまうという、非常に本末転倒なことが起こる。

ただ念のために書いておくが、あくまで、だからと言って、セラピーをセラピーとしてちゃんと機能していくよう運ぶ・クライアントの前で、セラピストはセラピストである、という前提を捨てたりなくして良いと言っているわけではない。
そしてもちろんセラピストとして持っているべき前提は、この2つだけではない。

しかし、これの持ち方としても、ちゃんと「セラピーとして機能する形で」扱う必要があるのである。

そして同時に、クライアントが「ねばならない」パターンの中で動いているとき(潜在的にであっても)、セラピストは猶の事(気付かず)自分もその前提にどんどんのめり込むように囚われやすい。そしてそれに気付かない。
そういう場合にこそ、セラピストがそのパターンを「崩す」という必要性があるわけだ。(自分のものであれクライアントのものであれ。これは実はどちらをやろうともどちらも同時に崩れるのだが)
そしてそれこそが実は、本当に「セラピーをセラピーとして稼働させねばならない」当たり前の前提を全うしていることになる。


「パターン」という意味では、セラピストは、クライアントのパターン(枠組)の中に(わざわざ)乗る、そこに入り込む必要もある。
と、いうより、そこに入り込んでクライアントのルールの中で(クライアント自身も気付いていない)クライアントのルールに沿ってカウンセリングやセラピーは進めねば、セラピーは遠回りになる。動機付けも、例えしたとしても折角したものも弱まる。
基本的に、セラピストはクライアントのパターンの中でセラピーを行う(もちろん、セラピストの視点自体は外側から観察しているのだが。そしていつの間にかセラピストも同じ土俵にいないよう、しっかりと複数の視点を保っていることも必須なのだが)。
しかしながら、それでいながらミイラ取りがミイラになるように相手のパターンに感化されていつの間にか自分の中のパターンも発動させていたら、セラピストとしては非常に危険な局面に陥ることとなるので、同時にクライアントのパターン(ルール)の中でルールに沿って行いながら、同時にそのパターンを崩す、ということが必須である。


そして、少し余談を挟む形になるかもしれないが、セラピストがまず、自分も自分のパターンに乗って嵌ってしまっていることに、気付けない場合が非常に多い。
クライアントの「パターン」の中に乗り込まなくても、セラピスト自身が自分のパターンを発動していることに気付かないことが多いのだから、ましてやクライアントのパターンに沿ってそこに飛び込んでセラピーをしようとしたら、尚更気付くことができないので、こういう場合は飛び込まないでダイレクトに対峙していた方が断然マシであることになる。危険でしかない。何よりクライアントを危険にさらすことになる上、クライアントを危険にさらしていることにすら気付くことができない状態であるので…。
セラピストは自分でも気付かずに、セラピストとしての立場をクライアントに対して保ってすらいられないことになるのだ。前提を守ら「ねばならない」としっかりと握りしめて守っているにも拘わらず、逆にだからこそ、握りしめながら、握りしめているから大丈夫と思いながら、気付かずセラピーセッション枠の安全安心を守れずクライアントを危険に晒すことになる。

セラピストがまず何より自身の内側を徹底的に整理した方が良いのは、このためである。
そして、セラピストや対人支援に就く人ほど、これに纏わるプログラム(潜在的ゲームに乗りやすい)を持っていることが非常に多い。
それにある種関係ない話ではあるが、どの道、カウンセリングや心理療法というのは、自分で同じものを受けたことがあるかないかで、クライアントに行った時の効果がまるで変わる。
いずれにしても、自分の内側や自分の潜在的プログラムを本気で整理した人、もしくはしている人以外は、そこにディスカウントが働いている可能性が非常に高いということが言えてしまう。
医者がまず職務前に自分自身に感染症などがないか検査するのと同じで、……食品を扱う現場で作業員が職務前に検温や体調チェックをするのと同じで……、自分の内側を徹底的に検査し、自分が先ず楽になっておく、癒されるべきところがあったら癒されておくということは、セラピストの職務内であるとも思う。なぜなら、怠った時のリスクがあまりに高く深刻すぎるからだ。

話を戻したい。
ただ、この、(パターンに)「沿う」とき、「崩す」とき、これの見極めは非常に難しい。
ミルトン・エリクソンの弟子で現エリクソン財団会長のジェフリー・ザイク氏の著作で、エリクソン博士がザイク氏に「(セラピーにおいては)タイミングがいのちだ」というようなことを伝えていた…というようなことが書かれてあった部分があった気がする。
それでいて、このエリクソン博士こそ、パターンに入り込んだり崩したりする技術が卓越していた人である。もしかしたら、この「タイミング」のことだろうか…と、ふと先日、思った。

と、同時に、これはある意味最低限ラインかもしれないのだが、私の感じている「タイミング」のひとつは、上記したような場合である。
つまり、セラピストが「”セラピスト”(この定義も人や場合によるが)であらねば」とか「セラピーをセラピーとなるよう持って行かねば」というような「パターン」に嵌ることを唆されているような感覚、そのセンサーの毛がふっと揺れた時である。
もちろん、このセンサー自体を持っている(つまり気付く)ことが大前提にはなるのだが、ただ、どの道このセンサーはセラピストなら持っている必要が(つまり自己整理している必要が)ある。
この毛(センサー)が揺れた時には、パターンを崩すことが効果を発揮するタイミングであると、感じている。
そして、セラピストとしても実は、(外側視点を失ってパターンに入り込んでしまっていたら至難であるが)「やりやすい」タイミングでもあるという裏もある。なぜなら、表面的な技術として、相手のパターンを崩すより自分のパターンを崩す(つもりでやる)方が断然簡単で確実である(笑)(先程も書いたように、表面的な技術としてはどちらを崩したつもりでも双方同時に崩れる。技術的に何をすれば何と何がどう崩れるかも計算の上でやることは、大事ではあるのだが。なぜならパターンを崩すこととパターンを再構成することはセットで基本的にほぼ同時に行われるため)


カウンセリングやセラピーにおいて、何やらセラピストももやもやする時がある。
こういう時は、クライアントの「パターン」に気付くことができておらぬままそのパターンに引きずられ発動させてしまっており、その上で「自分」の中にもそれに呼応する(反応する)パターンがあり、それが感化されている(更には既に発動している)場合である可能性が非常に高いように感じる。
これに気付くことができねばカウンセラー・セラピスト側が苦しくなる。すると、セラピー自体がどんどん本末転倒になる。
病気の医者が手術を執刀することは、クライアントを良い結果に運ぶことはできない。

ちなみに、クライアントに「抵抗」を感じるというカウンセラー・セラピストの方や、クライアントから「抵抗」が出てきていると感じる時、クライアント自身が自分の中から「抵抗」を感じると表現してくる時。
いや、そもそも、「抵抗」という現象があると感じているカウンセラー・セラピストの方は、そもそもクライアントの世界の前提ルールの外側、まるで違う世界から無理やり突き破って(これ自体がクライアントにとっては自分を守ろうとせねばならない危機であり、この時点でクライアントはセッション枠を安心安全な場所とすることができなくなる)、セラピストのパターンを押し付けようとしていたりセラピスト自身に既に何らか発動してしまっているパターンと呼応してセラピーの邪魔となる化学反応を起こそうとしている可能性が高い。
そして、私のもとにいらっしゃるクライアントさんも、他のところで「抵抗」という現象を「学んで」きて、抵抗信奉者となってしまっている人の何と多いことか。まるで「抵抗」というものの実態があるかのように。そんな人格でもいるかのように自分の中でいつの間にか切り分けてしまっている。そうでなくともクライアントというのは、ただでさえ「これはこう、あれはああ」と自分の中の世界も外側の世界も小さな尺度で切り分け名前をつけて分別して連動できなくさせるのがうまいのだ。
「トラウマ」という言葉を学んできて自分の心の中にあるあらゆるものを本当に「トラウマ」と化させて首を絞めてしまっている場合も多いが…。
クライアントは、自分の中から出てくる現象(一部分)を「抵抗」という名前なのだと(しかもセラピストから)学んでしまえば、そしてそこでセラピスト本人のパターンとの呼応を感じてしまえば(当然クライアントに”自覚”はない)、せっかく「自分を出す、自分が出てくる」カウンセリングセッションにおいて「自分を隠す、自分の一部を否定する」ことをどんどん覚えてしまうことにまっしぐらに突き進んでしまう。しかもセラピーに意欲的で協力しようとするほど、自分の中の抵抗を否認し隠そうとしてしまい、分裂する。

エリクソン博士の言葉に、
「そしてあなたのしなければならないことは、人々にあなたのありのままを見させるようにすることです」
というものがある。
セラピストは常にクライアントの鏡であるから、鏡の側で勝手に動きがあれば、クライアントも条件反射でつい同じことをしてしまうことになる。以前の記事でも似たようなことを書いたが、クライアントは、セラピストの”眼”に映った自分自身の姿(命の輝き)を見て、自分自身を知っていく(ありのまま、をいつの間にか体現できるようになっていく)のだから。

…別に本日の記事の趣旨としては、セラピストが自分と向き合うべきである、ということを書きたかったわけではなく、ただ呟きと、寧ろ考えの言語化のために書いたのだったが…。

しかしちなみに、この記事では私が自身の考えを言語化するために前提をいろいろすっ飛ばしたのでもしご興味があるから読んでみたのによくわからない、という方がおられたら、

そもそもクライアントのパターン(ルール)とは何か?
その「パターン」の中に入る/「パターン」を崩すとは何なのか?
そしてもしご自身と向き合う必要があるというところに共感された対人支援の方やその卵の方がおられたら、自分の一体何とどう向き合っていくのか…
自分の「ねばならない」クライアントの「ねばならない」が発動している時、どうやって気付くのか…

などなど…

そもそも、本日の記事の主題自体がかなり専門的部分で呟いている気がするので、その辺りから説明を始めると膨大な記事になってしまう。

ただ、私自身、”癒し人”さん(カウンセラーさんやセラピストさん他対人支援に関わるような方々)のためのメンテナンスも承っております。
また、ご自身を本気で癒したい・向き合いたい人向けのセミナーやワークショップも展開しています。
正式な開講は来年以降になりますが、2024年からはセラピスト養成のための講座開催にも本腰を入れて参ります。
いろいろな角度からその方その方に沿う形、必要な形を見極めるためにも、ご興味がある方には、無料事前個別相談という形で、直接お話する機会を設けさせていただいております。

また、研究会や勉強会などを組み込んだコミュニティも運営しております。

この記事はそもそもが呟きではありましたが、この記事および他の記事をご覧いただきご興味をお持ち下さった方は、一度ぜひ、お問い合わせフォームよりお声がけくださいませ。


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