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【短編小説】夜明けと共に僕らは


<ピー、ピーピー、ピー、ピーピー>


一定のリズムでドラム缶を掻き回す
重低音がピタリと止んで
甲高い電子音が目覚ましの合図になった。

前のめりな日差しが
梅雨前線を強引に押しのけて
急足でやってきた今年の夏はとにかく長く、
日差しはやけに、強く街を照らしていた。

そんな夏をやり過ごすため
コインランドリー室内の
クーラーの効きは抜群だった。
しかしそんな冷風に当てられた
固く冷たいプラスチックの椅子は
孝之の身体を癒すことはなかった。

組んでいた腕と足を解きながら、
浅くなっていた呼吸のリズムを取り戻そうと
大きく鼻に空気を取り込み、孝之は瞼を上げた。


目を開けると、そこには一人
差し込む朝日に照らされる女性がいた。
彼女の頭上にある時計は8時12分を指している。
眉間に皴を寄せながらノートにペンを走らせる彼女は、
孝之の視線に気が付き、描く手を止め、
慌てて直立し頭を下げた。

「すいません、勝手に…!」
「えっと…何がですか?」

一つ結びから目元に垂れる後れ毛を払いながら
彼女は気まずそうにスケッチブックを孝之に見せた。
「白くて綺麗な手をされてたので、つい…」

そこには、くたびれた作業服姿で
がくんと首を垂れながら腕組みをし
眠りこける一人の男の姿が描かれていた。

丁寧な陰影が付けられたそのスケッチには
作業着にこびりついた黒ずんだ汚れや
体の骨格に合わせて寄せ広げられた服の皴、
筋張った腕に浮き上がる血管までもが
繊細に描き出されていた。

「これ、僕ですか?」
「気持ち悪いですよね…すみません本当に…」

孝之は、自分の無防備な寝姿を
目の前の女性にじっと見つめられていたこの状況と
生まれて初めて自分の身体を
『綺麗』と形容されたことに
極度の羞恥心と不思議な高揚感を覚えていた。
だからこそ、咄嗟に口から出た台詞が
逆に不気味なものになってしまった。

「ありがとうございます」
「え?」
「あ、いやその、俺なんかを描いてくれて」

彼女は初め目を丸くしたが
すぐに目尻を落として優しく微笑み、
孝之の言葉に返してくれた。

「いやいや、とんでもないです。
すごくお疲れだったみたいで」
「あ、そうですね、仕事終わりで
つい居眠りしてしまっていました」
孝之は愛想笑いしながら頭を掻いた。
「そうなんですね、私も仕事終わりです」

意外な共通点を見出した二人は
文字通り互いの労をねぎらうように言い合った。
「「お仕事お疲れさまです」」
二人は照れくさく笑い合った。

彼女は洗濯機の方を指さして言った。
「そういえば、さっき鳴ってましたよ」
「あ、そうだった」
孝之は慌てて駆け寄りドラムの蓋を開け
湿った衣類に右手を突っ込んだ。

すると、それを見ていた彼女がふと
二人の時間を引き延ばす、
格好の言い訳を提案してくれた。

「乾燥もしていきます?」
ポケットの中をさりげなくまさぐり、
小銭があるのを確認した孝之は応えた。
「あ、はい、します、乾燥!」
彼女は満足そうに微笑んで再び椅子に腰かけた。

300円を投入し衣類乾燥コースを選択した孝之は
30分のロスタイムに突入した。


「何のお仕事されてるんですか?」
彼女が孝之に興味津々に訪ねてきた。
孝之は汚れた作業服をさすりながら
あえて自虐的に答えてみせた。
「えーっとなんて言うか、
いわゆるゴミ収集のドライバーです。
世の中にあって当たり前の、汚れ仕事ですよ」
彼女は何故だか少し悲しそうな顔をした。
その表情が自分への哀れみを示すような気がして
孝之は気まずくなり、とっさに話を振った。

「何の仕事してるんですか?」
「私は、夜間のホームヘルパーやってます」
「へぇ、夜間もあるんですね」
彼女のジャージ姿、大雑把に束ねられた髪を見て
孝之は彼女の職業に納得がいった。
「そうですよ、24時間、誰かが起きて
見守らないといけないですからね、世の中」
彼女ははつらつと答えた。

孝之は思わず感嘆の声をあげた。
「なんか立派ですね、すごい」
彼女は一瞬孝之の顔を見やり、
顔の前で手を振りながら笑って否定した。
「立派そうなこと言ってますけど、
単に朝が弱いだけでもあるんですけど」
「あ、それなら僕も一緒だ」
「二人とも夜行性ですね」
二人は目を見あって、笑った。

「燦燦と降り注ぐ陽の光、みたいなのが
苦手っていうか、こわいっていうか。
なんか、眩しすぎちゃって。
ヘルパーの仕事やってるとね、
朝がこわくて眠れないおばあちゃんもいて
そんな人の手をじっと握りながら
静かに明け方の空を眺める時間があるんです。
それが私の性に合うんですよ」

そう話しながら二人は、
窓越しにある朝の風景に目を移した。
右手のハンカチで額の汗を拭いながら
左手には重そうなビジネスバッグを下げ
テキパキと歩みを進める
サラリーマン達がそこに居た。

「みんなすごいですよね、朝起きて会社に行って。
私にはそういう生活、到底できそうにありません」
「僕にも難しそうです。
夜中にゴミを集めるのが、性に合うんですよね」

孝之はつい、話したくなった。
朝がこわいと言った彼女に、
自分の手を綺麗だと言った彼女に、
話してしまいたくなった。

病的に白い孝之の腕は、日光に当たると
たちまち蕁麻疹が浮き上がることを。
その痒さに任せて爪を立て搔きむしれば
白の腕は赤く血に染まってしまうことを。
自分の手は汚く穢れたものだということを。

だけど素直には話せない孝之は、
ぽつりと彼女に問いかけた。

「僕の手は、何のためにあるんでしょう」

彼女は表情を変えず、ゆっくり答えた。
「私の手が、明け方おばあちゃんの手を
ぎゅっと握るためにあるように
あなたの手はこの街に、変わらない
清々しい朝を届けるためにあるんですよ、きっと」
彼女は孝之の方に顔を向けて続けた。
「仕事終わりの朝の深呼吸が美味しいのは、
きっとあなたのおかげです。
いつもありがとうございます」

微笑みかける彼女を見て、
自分で聞いておいて彼女の言葉の温かさに
照れくさくなった孝之は
腕をさすりながら小さくお辞儀し
朝の街の風景をもう一度見つめた。


孝之はふと、彼女が両手に大事そうに抱える
スケッチブックに目をやった。
「絵は?」
「え?」
「これからも描かれるんですか?」
「あぁ、はい、これからもっと描きますよ。
夏が終わったら、夜間の仕事で貯めたお金で
チェコにアート留学するんです」
「チェコ?留学??」

あまりに突飛な彼女の回答に孝之は戸惑った。
「私ほんとは、もっとたくさんの人の
震える手をそっと握っていたいんです。
だけど私の腕は2本しかないから、
この手で絵を描いて、
たくさんの人に届けようと思うんです」

彼女はそう言って、
満面の笑みで赤いスケッチブックを
ぎゅっと抱きしめた。
ついでに、孝之の心もぎゅっと締め付けた。

<ピー、ピーピー、ピー、ピーピー>
あっけにとられる孝之に
試合終了のホイッスルが鳴った。


ひどく暑く、長かった夏が終わりを迎えた頃、
孝之は夜の国際線ターミナルに立っていた。
振り返って大きく手を振る彼女は
保安検査場の入り口に消えていった。

秋になればまた
相変わらずの日常が戻ってきた。
ゴミ収集車のハンドルを握る孝之の手は
相変わらず白かった。
しかし心なしか、以前より逞しかった。

世界中の人の手を握ると言って
大空へ飛び立った彼女だったが、
少なくともこの夏だけは、
彼女の右手は孝之だけを描き、
孝之の左手だけを握って過ごしたのだ。

彼女の手のぬくもりを思い出しながら
孝之はハンドルを強く握り締める。
秋風が薫る夜明けの街に向かって、
一人静かに、車を走らせた。

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