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『或る闘病記』の声


『ネットで故人の声を聴け』という本を買いました。
1章ごとに気持ちがぐっと深く入り込んでしまうのであまり読み進みません。

患者団体の活動にも参加するようになって
インターネットで病気のことを調べる機会も増える中で
闘病ブログを見かけることも増えました。
途中で記事が止まったまま何年も経っています。
そういうものを集めた本として興味を持ちました。
東洋経済オンラインの記事としてもまとめられているそうです。

議員としても、カフェ経営者としても、お辛いご病気をお持ちの方のお話を聞く機会があったのですが、

お辛いご病気をお持ちの方はときどき驚くほど強く、鋭い言葉を放つことがあります。

普段の会話はとてもやさしい言葉でやりとりしているのですが、何かの拍子にスイッチが入って、剣のような鋭さが制御力をふりほどいてでも出てくるという、そういう印象です。

過度の肉体の辛苦と絶望はどんなに強い理性でもってしても制御できない、そういう領域があるのだと思っています。

それがなかなか、健常者の方には理解しにくい部分ではないのかなあと、最近とみに思います。疾患による肉体の苦痛と衰弱は、薬を飲めば治るでしょうとか、強い痛み止めを飲めば平静を保てるでしょうとか、そういうものではないのです。

ヘルプマークの普及促進で、外見から分かりにくい疾患をお持ちの方への配慮をお願いすることがあるのですが、何に配慮が必要かというと、まず、想像が及ばない領域が存在するのだなあ・・・と配慮してほしいのです。

『ネットで故人の声を聴け』の第2章で紹介されていた男の子が『或る闘病記』というブログの中で、「祈りの献血、命の輸血」というタイトルの記事を投稿したところ、言葉使いが普段と違って理性を欠いた荒いものになっていて、炎上 ⇒  修正・謝罪という形になってしまったとありました。

ちょっと言葉は荒いかもしれませんが
こういう文体はネットでよく見かけますし、それで炎上してるわけでもありません。

主張も、もっと献血してほしい。助けてくれというだけのものです。

どうして世の中は彼に謝らせてしまうんだろう。
どうして修正させてしまうんだろう。
胸が痛くなりました。

彼が取り乱したことで
世の中の側まで狼狽してしまったのでしょうか。
それに対して傷ついたよと言わずにはいられないのでしょうか。
その批判が彼の免疫力を低下させ、病気を増悪させることは考えられないでしょうか。
弱っているときは、本当は弱みをさらさないほうが気が楽です。それでも言い募りたい感情が制御できなかったことがあったんでしょう。


記者さんが、著書の中で、どうしてこのときだけ理性を欠いてしまったのかと表現をされていたので、

うん、ご病気の方はどうしてもそういうときがあるんです・・・って言いたくなりました。


ときに苦しみから理性を欠くときがあることを許してほしい。本当は弱みをさらけだしたくないはずだということも想像してほしい。叱責を受けることが身体的に大きなダメージになることを配慮してほしい。
想像が及ばない世界があることを配慮してほしいのです。

患者団体で県や市町に要望を行われるときあるんですが、基本的には当事者が挙手方式で声を上げるというやり方をとられているのですが、どうしても支援の声をあげるときって、普段やりすごしている負の感情と向き合わなくてはならなくて、制御が難しくなると思います。

なので、比較的健康な人間や家族が代わりに声を届けるほうが、より良い形になると思います。議員もそんなふうに役立つことが望ましいだろうと思い活動してきました。

私自身も自分が体を病んできたことで、もう障がい者や難病患者さんのための発言はできなくなるなと観念しました。

自分ごとになってしまうと、公平な声ではなくなってしまいます。
理性を失った瞬間に、公正な声としては受け止めてもらえなくなります。
感情的になってうっかり言葉使いを誤うと、訂正・謝罪すべきだとか、そういうお叱りもいただくことになります。


障がい者の声は障がい者が届けるべきだという世の中の考え方はどうしてそうなのか分かりません。

大学の倫理学演習の授業で1977年青い芝の会の川崎バス闘争をディベートしたことをよく思い出すようになりました。

自分の回答はどうだったか・・たしか、障がい者の方が体を張るような行動を起こさせる前に、市民オンブズマンなど監視機能を充実させ、至らせないことが必要なのではないかというような筋書きを用意した気がしますが、当時も大体、第三者が代理として声を届けるほうがよろしいのではというのは今と一貫していた気がします。

公共バスはどこも車椅子対応のノンステップになりましたが、その後どんどん路線が廃止、コミュニティバスや福祉タクシーが運行するようになり、今は地区住民運営型のデマンドタクシーや自動走行車が住民の足となる時代になりました。


カフェをしていたときの常連さんで、難しい病気でペインクリニックに週2~3で通っている方がいらっしゃり、普段は誰より穏やかで優しく、暖かく、会社も経営されて苦労されて家族の面倒もしっかり見られて、社会的信用もある立派な方だったのですが、病院が駐車料金をとるという話が出たときに火のように怒られて、色んな要望活動をされていました。
本当はバスで来院したいほど体が苦しいのに、公共バスも増やさずに、駐車料金とるとはなにごとやと、そういうお気持ちでした。

そういうことなども背景にあり、4年間の議員活動の中ではずっと地域公共交通について質問してきました。


今日、乙武洋匡さんが参議院選挙への出馬表明をされたというニュースを見ました。


知性的で思慮深く、また身体的にもタフな方のようで、障がい者の声を大きくしてくださることを期待する気持ちと

そのために背負いすぎなくてはいけない苦労があるのではないかという心配と、色んな気持ちが錯綜しますが

普段からの乙武洋匡さんの考え方や発言力、調整能力をテレビ等で拝見していると乙武洋匡さんの出馬挑戦のお気持ちは共生社会の実現のためにとても有難いことだなと思います。


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