母性の沼

 仏様よりマリア様に縋り、抹香臭い数珠より舶来物のロザリオやメダイに心惹かれるが、復活より前世や生まれ変わりを信じ、結局のところキリスト教の服にも仏教の服にも馴染めぬまま、最終的に仏式で送られるーー

 典型的な葬式仏教を身内として体験するも何かがしっくりこず、違和感を覚えた部分を精査して気づいた。私の宗教観は隠れキリシタンによく似ている。

 公立共学育ちの友人は言った。
 「キリスト教の学校の人って祈る時はマリア様に祈るよね」

 キリスト教の学校にも色々ある。が、彼女の母は、私もカトリックの女子校出身だと知るや「お祈りが口語調になったの知ってる!?味気ないよねぇ」と話しかけてきた。「雰囲気出ないですよね」私も頷いた。そして二人で唱えた。

 めでたし聖寵ーー

 受洗していない私たちのマリア信仰は大概似たような奇形児になる。学校で叩き込まれたキリスト教を卒業後は何のケアもなく心の奥深くに埋もれさせておくと、日本人としての感性が教えを変容させ、意識せぬままキリスト教も仏教も押し退け、マリアという母性が中心に鎮座してしまう。

 母性の押し付け、内面化。これは誰に都合が良いことなのだろう?押し付けられたシステムの頂点にあるのは何なのだろう?

 私は父性を知らない。母性に甘えた子供しか知らない。性暴力の加害者を笑って受け入れろという、そんな母性しか知らない。だから今日も笑顔を作る、この国で生き延びるために。

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