出会いと、そのご縁に感謝します。 この世の中に失敗も成功もなく、あるのは事実、現実のみ。その現像をイメージ通りにできるのは己自身です。 良くも悪くも自分がイメージした自分になる。 成功すると思えば成功して、失敗すると思えば、失敗していた。 人生は単純なんだときっと気づくと思います。 数年後は、また、あなたがお酒を飲みながら悩んだ日のことを、思い出して、笑い話になってますよ。 これからの成功への道のりを楽しみに、私自身に、期待
明治維新は、女が作った。 唐突な書き出しである。 しかし、現像を検証すればその意味が明確になる。 江戸時代参勤交代の世の中で、家を守ったのは女であった。 そして、思ったか、思わなかったか、尊敬したか、しないかわからないが、主人のことを持ち上げ、子供にお父上のようになりなさいと叱咤激励をしたのが、その家の奥方であった。 子供は純粋、単純だから、お母上の言葉を信じて、家を守り、藩を支える事を是とする教育を受けた。 その結果300年という年月を江戸時代が続き、その後、国を
私はこだわりはありません。 そう断言する、言葉にこだわりを感じる。 言語の、二重否定は肯定に転ずる。 例えば、算数のマイナスかけるマイナスはプラス。 マイナスイメージを、さらにマイナスで強調するとプラスになるという不思議。 こんな話をする私は 理屈っぽい、嫌なやつとうつるかもしれない。 私は、それを否定しない。 事実、屁理屈男だと思っている。 相手を否定することも、自分を否定することも 総じて、自分自身に戻ってくるのが、否定肯定理論である。 我ながらよくも口から出ま
平等と公平感。 世の中は平等公平ではありません。不平等不公平なのです。大人になれば、理不尽な事がたくさんあります。 人は、その理不尽に打ち勝つための未来志向力を養い、努力してきたのだと思います。 平等と公平を、言語にして公平な社会を目指していると、不公平な真実が表面化されます。そもそもそこに存在しないから、目標にするのです。 例えば、企業の応接室や社長室に「和」の書がある会社は、ワンマン経営者だと言われます。 社是もしかり、どこかの会社では、「奉仕精神」というのを見た記憶
昔は、介護という仕組みがなく、直系家族では、じいさん、ばあさんその子供夫婦、それと孫がいるのが、普通でした。 直系家族では、年寄りは孫に癒され、孫は年寄りにしつけされ、けんかをしながら、教育されてきました。 生活の中で孫に対する教育で一番大切なことは、人が死ぬという事であったと思う。 なぐられて、痛い思いをして、初めて人を殴る事、殴られる事の理不尽さや痛みを知るのです。 それと同じように、おじいさん、おばあさんは自分が死ぬことで、身をもって死ぬという事がどういう事かを
妖精を見た!これは事実である。 それは、学生時代新小岩のアパートでの出来事である。 先輩と二人でこたつに入って、ふたりでグダグダしていた。 「金はないし、飲みに行けない」とたわいもない会話をしていた。 突然、輝いている物体が現れた。 ディズニー映画のピーターパンに出てくるような、人間の形をしていて、羽のようなものが生えた輪郭だけが分かるものでした。 先輩と私の間を50㎝ほど移動して、突然消えた。 二人で、今のは何だ?! 二人で状況確認をした。 先に説明したように、同じに
理屈っぽい私は、屁理屈を考えながら、できない、やらない理由を正当化する。 そのくせ、行動した後、自分の行動を正当化するための理由を後付けで考えて、納得する。 我ながら、場当たりな性格に情けなくなる。 それでも、自分は自分だ。 なんくるないさぁ~とうそぶく。 今まで、いろんな事件と対峙してきた。 そのたびに、悶絶して苦しんできたものだ。 でも、自分は生きている。 都合がいい事に、どんな時でも正当化する。 何が、あっても、どんな荒海も航海を成し遂げてやるぞと思う。 後悔先
わかってくれない。 私はこう思うのに。 伝えたい事を伝えられない。 伝える方の語彙が足りない。 受け取る方の理解力が足りない。 理解をしたい時、どちらも努力が重要。 わからない時、伝え、理解するのをやめてみる。 別の会話、体験により、後からわかることもある。 理解してもらえることもある。 語彙力とは経験値を言葉に変換する表現力のことであると思う。
「無」とは何か? 目に見えなくとも、そこに存在している物質は数えきれない。 だれでも「無」になりたいと思った事があると思います。 物質的な「無」ではなく、精神的な「無」。つまり「悟る」とか「達観する」という、不確定で不明瞭な、個人的な思い込みという満足感を私は求めていた。 そして、思い込みで解決するならそれも正解だと思った。 私も思い込みで「無」の意味を解決した事を書きます。 「無」とは「独楽」のような状態であると思う。 「独楽」は回らずともコマであり、回ってこそ「
合氣道の先生が教えてくれた。 武道の達人は、争いごとに近寄らない。 争いが起こる前に、回避してその場にいないのである。 争いに巻き込まれる人は、無意識にその渦に身を投じている。 権利を主張したり、自分が正しいと思いこんだり、執着であったり、我が強かったり、優先すべきは、命の安全である。 負けるが勝ちと昔から言われてきたが、笑っている人が勝ちである。 そして、どうしても争いに直面した時、 人から襲われそうになったら、逃げろと言われた。 相手は「気が違っている」キチガイ
ケルト民族。 彼らの幾何学模様は宇宙を表現していると思う。 人間がどこから来てどこへ行くのか遥太古の昔から知っていたのでないか。 エンヤの音楽とともに時空を飛び越える。 不思議な感覚を覚える瞬間だ。 誰もが持つ超意識、その意識を感じられるかもしれない。 ラインフォルトメスナーという登山家の超人ぶりを紹介していた。 彼はなんと自律神経だけでなく交感神経をも操る。 呼吸、脈拍、心拍さえも自由に調整する。 神と言える存在だ。 武漢コロナが発生して2年目の時。 やはり大水害が
この世には成功も失敗も存在しない。 あるのは、結果であり、事実であり、現実だけである。 イメージは実現するという。 そして、そのイメージは自分が作り出したものである。 話は変わるが、この世の中の物質には、周波数がある。 物質に周波数が存在するならば、物質である人間にも周波数がある。 「波長が合う」、「類は友を呼ぶ」とも言う。そして、その人間が、考える事象、イメージ、想念にも周波数がある。 喜怒哀楽それぞれの周波数がある。 その周波数に、自分の心の中のラジオがチュー
人は、超意識をもつ。 その能力を使わずにいて、自分自身忘れているのかもしれない。 虫の知らせ、お告げ、デジャブ、予知夢。 第六感を意識してみる。 気づきがあるかもしれない。 それは特別な能力ではない。 人はだれしも、第六感を持っていると思う。 しかし、皆、気づいても気のせいで済ませる。 偶然だよと済ませる。 偶然はなく、今私たちが存在する事は現実。 今の自分が、この時、この場所、この環境の中で生活しているのは、必然。 意識、無意識にかかわらず、自分が求めた結果が
自分が見えない。 体調が悪いとわかるうちはまだ幸せ。 それさえも気づかない。 一番大切なのは自分自身だ! 自分が労わらなくて誰が自分を守ってくれるというのだ! 複雑にしてきるのは、どうやら自分らしい。 答えは出ているのに。 常識や感情がそれを邪魔する。 普段の何気ない生活や事件が、色々気づかせてくれる。 それに気づく触覚を育てたい。 それを感性というのだろうか?!
絶好調!いつもの自分。 妥協したりしたら、信念を曲げることになる。 徹底してこそ、自分だ! 本当にそうなのか? それが気持ちよければ続ければいい。 しかし、少しでも不安を感じたり、自信を持てず、無理してたら、それは自分の本来の姿ではないかもしれない。 何にこだわっているのか? それは自分自身が知っている! 認めようとしないだけ。 やりたい事とやらなきゃいけない事。 それも自分が知っている。 起きて作業しなくちゃと考えた時には睡魔が襲う。 寝なくちゃと思うと覚醒。
何を伝えたいか? 読んでもわからない時。 言葉の前後で判断する。 それでもわからない時。 全体を読み解く。 それでもわからない時。 想像してみる。 空想してみる。 書き手の趣旨よりも、 読み手により、趣旨が変わる事がある。 読み手の数だけ解釈がある。