超意識の存在

亡き両親は父が大正13年、母が大正8年の生まれでした。母が43歳の時に私が産まれた。
小学二年まで、ある村で育った。井の中の蛙大海を知らずである。私の家は比較的裕福であったと錯覚していた。家も旅館を営み、母は助産婦をして、父は団体職員であったからだ。
 
しかしその実態は違っていた。それに気づいたのは、田舎の学校から近くの町に引っ越ししてからのことです。
父が首長選挙に立候補した借金を返済するために、子供たちの将来のことも考えて、一軒家の9LDKの一戸建てから、二階建て長屋のような、共同住宅2階2Kの借家へ、村から町に引っ越したのでした。

全校生徒100人強の小学校から、新興住宅地の1000人を超えるマンモス小学校に転校しました。転校してある事件が起きました。
それは、転校した学校の初めて、父兄参観日での出来事でした。
私の母はその時、50歳で、クラスメイトのお母さんは20歳後半から30歳半ばくらいが大半で、私の母はとにかく目立っていた。看護師と助産婦と麻酔の仕事で三日に一度の夜勤をこなし、おしゃれに気を回せるような状態ではなかったのだと今なら理解できます。
前の席の純粋な友達が「お前のかあさん誰だぁ~?」と言ってきたので、「あれだぁ~」と教えると「おめぇのかあさん、おばあさんだなぁ~」と言われた。放課後その友達とけんかして泣いて家に帰ったのを覚えている。

いつも通りの晩御飯の時、私は母に言った「先生が今度はお父さんに来て欲しいと言ってたよ」と嘘をついた。先生がそんなことを言うはずがなく、母はさびしそうな表情で「そうだね」と一言、言った。父は母より5歳若く、その実30歳後半にしか見えない若々しく、息子から見てもカッコイイ父であった。その出来事を記憶にとどめておきながら、母に謝罪する事が出来なかったことが、私の記憶をさらに強調して忘れさせないようにしてくれているのだと思います。

小中高大学とお金には苦労せず、親のすねをかじりながら、大学を卒業した。母は、常々私に話した。「お前たちには何も残せないから学歴を残したい」と。お金は自分で稼げという意味であったのだと思います。

母は根っからのひょうきんもので、明るく、夜勤明けの朝は、ごはんを作り終えて、お産の話をしてくれたものです。
今日は何人生まれたとか、排泄物の処理を素手でするとか、子宮口の開き具合がまだなのに院長は生まれて出てくると言い張り、母の見立てといつも違うとか、子供には全く検討がつかない話をしていたことを記憶しています。

63歳という高齢にもかかわらず、看護師の仕事で、三日に一度の夜勤は拷問であったかもしれない。そんな、母が骨粗しょう症という骨の病気で倒れ闘病生活を始めた。
大学三年の秋、私は付き添いとして、病院のベッドの下に布団を敷いて、一緒に寝泊まりしていた。昔は病院の付き添いができて、家族がベッドの下に布団を持ち込み添い寝をしていた時代でした。
病気が悪化して、おむつを交換したり、入浴させて体を洗ったりして卒業まで定期的に、病院に泊まった。父と兄と私の三交代で看病した。

闘病生活が一年半過ぎたころ、大学を卒業した。
卒業証書をもらった日に、卒業証書を見せに病室に行くと、母はモルヒネで意識が無い状態でした。しかし、私は、卒業証書を母に見せて「かあさんおかげで卒業できました。就職も決まりました。どうもね。」と照れながら言葉をつなぎました。

すると意識の無い母の目から大きな涙が流れてきました。意識がない母が気づいてくれたと感じました。人間には意識を超えた超意識の世界があるのだとその時気づきました。体が不自由でも意識が無くても超意識の世界では全てが通じることがその時初めて理解できました。その時、母の愛につつまれている満足感と余命わずかの母の事を思い悲しくて、病室を飛び出し、病院の屋上で初めて泣きました。

看護師さんが私を探して「おかあさん意識もどりましたよ」と呼びにきました。もう一度卒業証書をみせるとあっけなく、「あっそうかぁ」とそっけなく答えてくれました。私は拍子抜けして少し笑いました。

それから、3ケ月後の6月10日に母は、逝きました。
死ぬ数日前に社員寮のまっくらな部屋で人の気配を感じました。母の空気感を意識しました。最後に私に会いに来たのだと思い、そろそろ母が逝くのかと覚悟しました。
もう苦しまなくてイイんだよ。心の中でつぶやきました。離れていてもつながっているんだなと感じた瞬間でした。

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