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黛灰という在り方

もし「VTuberとは何か?」という問いがあったのなら、自分は絶対に黛灰の名前を挙げると思う。

定義があいまいでぼんやりとしたこの界隈だけれど、それはこれからもずっと揺るがないと胸を張って言う事が出来る。

黛灰という存在にこれほどまでに必然性が与えられたのは間違いなく、彼がその在り方に心血を注いできたからだ。
それはにじさんじ所属タレントとして、配信者として、純粋なゲームユーザーとして。
ある時はバーチャルな存在として。

黛灰は身もふたもない言い方をすればオーディションの中から選ばれた企業所属のVTuberの1人だ。

そんな企業発デビューのVTuberに少なからず生まれてしまう「与えられたものを演じる」という命題に目を背けずに向き合った数少ないVTuberが黛灰だと自分は思う。

長い時間をかけて、他ライバーや視聴者を巻き込んで、街頭ビジョン・SNS・配信などあらゆる手段を用いて、自分という在りようを問う表現をし続けて来た。

黛灰という男はついクスっと来てしまうような小ボケを真顔で言い放ち、ノンデリカシーなメタネタをも器用にエンタメにしてしまう飄々としたお調子者だ。VTuberや配信者として申し分ない高いタレント性を持つ傍ら、雑談配信で文章を推敲していくかのように淡々と感情をアウトプットしていく姿はシリアスで理知に溢れていたし、それが飾らない等身大の一己としてリスナーの前に佇んでいるようにも見えた。
そんな彼の配信が大好きだった。

黛灰がデビューした頃には既に、有名事務所からデビューを飾り成功していく事がVTuberのゴールとしてイメージしやすくなっていたと思う。

そんな時期にデビューしたにじさんじの彼が、まるで化石みたいな「バーチャルYouTuber」の文脈をやり遂げて全うするなんてきっと誰も思っていなかった。

VTuberといえどやりたい事をするのが一番で、そうすることで「自分らしさ」になっていく。
『黛灰の物語』を経て、それは100%の正解ではないのかもしれないと思うようになった。

「本人が何をするかが全てで、幾らでも挿げ替える事が出来る。」
そう割り切る事が出来てしまった時に、VTuberである意味が失われてしまうような気がするのだ。

「なりたい姿になる自己表現」なんて誂え向きなお題目が存在しない彼らだからこそ言葉に出来たものがあった。
自分はあの『物語』をそう受け取った。

「嘘を挟む事でかえって自分に素直になれる」のが配信と言うストーリーを見せていくVTuberにとっての強みと思っている、と或るライバーが話していたのをふと思い出した。
名前付きのオーディションを勝ち抜いた彼らは、最初から俯瞰した視点を持っているのではないかと思う。

黛灰は『物語』以外でも
「自分はどういった存在で何を表現したいか」
「自分がにじさんじライバーというタレントで居続けられるリミットはいつまでなのか」

そういった内省的な想いを明かすことの多かったライバーだ。

ANYCOLORが見出したタレントとしての自分、リスナーが求める自分、バーチャルとしての理想の自分。全部ひっくるめてどうあるべきなのか。

黛灰はそうした感情の揺らぎが一際大きいVTuberだと思う。

彼がバーチャルYoutuberの文脈を以て表現したものは、決して何かを捨てどれか一方を選ばなくてはならないような価値ではなかった。

ただそれだけが心残りだ。

VTuberというカルチャーがあり、視聴者の存在があり、自らもボロボロになりながら最後まで描き切ることの出来た「黛灰」の存在をゆがめたく無かったから、自分の手で終わらせることを選んだのかもしれない。

折り合いを付けながら存続させることは出来ていたのに敢えてその道を選んだのであれば、きっとこの先感謝してもしきれない。

黛灰を全うする為に、関わって来た人達が信じてくれた価値を残す選択をしたのかもしれないから。
これは本当に自分勝手な憶測だけれど。

あなたにとって黛灰はただの名前だっただろうか?

見ていた人だけが感じ取れるし、本当の事を知っているのはたった一人の、他ならない黛灰だけだ。




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