私の自己紹介(選手編)

皆様、こんにちは。

このノートでは自分の経歴などを含め、私は何者なのか。を説明したいと思います。

氏名:藤井 一弥
生年月日:1989年11月14日
利足:右
ポジション:FIXO(フットサル),DMF(サッカー)
出身地:神奈川県
選手経歴:橋本SC➙FCコラソン➙サンジョゼ(BRA)➙FCコラソン➙日大明誠高➙日本大学➙Pasión juvenil➙Praia Grande➙CRAQUES➙引退
指導経歴:エスパルス駿東(普及)➙アスルクラロ沼津(普及)➙CRAQUES➙シュライカー大阪
契約メーカー:Desporte

あまり自分の事を書くのは恥ずかしいのですがこのnoteを書いているのはフットサルを知っている人間なのかどうか皆様に知ってもらえたらこのnoteも活用してもらえるかな。と思い記憶を探りながら書いております。(笑)

私がフットサルに出会ったのは中学3年生のブラジルでした。正確には6人制のソサイチ的なものでしたが当時、所属クラブではブラジルキャンプという名の短期遠征がありそこで出会いました。スタメンかベンチかの境目で自分の中でサッカーが苦しかった時期にそこで何か掴みたく遠征に参加しました。

一言でいうと全てに衝撃を受けました。(細かい事は別ページにてブラジル編を書こうと思います。)

そこのソサイチで何故か分かりませんが活躍してしまいサンジョゼから練習に参加しないかと声をかけて頂き自分が掴みたかった何かが手に入りそうでした。
(今でも当時の仲間にはフットサルは何かうまいよな。と言われます。決してそんなことないのですが)

そこで私はブラジルの強さを肌で感じました。

高校生活は全国にも出れず無名のまま3年間過ごしエスカレーターで大学に進学しました。サッカーもぼちぼちにやればいいやと思い一線を引くような形で1年過ごしました。

大学1年にフットサルと再会しました。大学時代は学部のサッカー部に在籍していて1年生は社会人フットサルリーグに出る決まりでした。学部のサッカー部なので正直強くはないです。僕なんかで1年からAで出してもらえました。

そんな中、社会人リーグの1番下のカテゴリーに当時1年生はエントリーしていました。(正確には出させられていた。です)

当然、大学生ですから一生懸命やらなくても何とかなっちゃうわけです。そんななぁなぁなFotball人生を送っていたところで同級生から

『フットサル来ないか?遊びだからさ』

と誘いが来ました。が何とそこが競技チームだったのです。

と言っても戦術も何もなくサッカーの名門校出身の同級生達が個の能力でフットサル(やってることはサッカー)をやっている僕にとってとても魅力的なチームでした。

入団し全日本選手権では今でいうジャイアントキリングを起こし支部リーグ所属ながら県大会に出場することができました。そこで私たちは0-10と言う歴史的大敗(自分史上初)を喫してしまいました。

その相手はジュビロ磐田フットサルクラブです。(今はデリッツィア磐田)今でも全国に名を馳せる静岡の名門です。

私は失望しました。何故ってジュビロ磐田(デリッツィア磐田)の選手はサッカーの名門校出身がほぼいないんです。
(当時は静岡県のフットサル情報誌がありそこに全選手の経歴が載っていました)

私はそこで初めて

【サッカー上手い=フットサルが上手い】ではないのか?

と感じ始めました。そこで決心しました。当時から声を掛けて頂いていたPraia Grandeに移籍しようと。そうすればその謎が解けるのではないかと。

Praia Grandeとは
2002年設立。株式会社ドリブルジャパン(Desporte)の社員が本気のチームを作りたいと私設で立ち上げる。2018-2019で解散してしましましたが今でこそFリーグで主流の前プレを全国で1番最初に取り入れたチームです。実績も全日本選手権ベスト8や地域チャンピオンズリーグに出場など全国にも名を馳せたチームです。
『前プレと言ったらプライア』というくらい浸透していました。
(今の若い年代の方々は分からないかもしれませんが...)
Fリーグの山田凱斗選手(浜松)、藤原潤選手(浦安)、石川隼人選手(柏)、赤窄孝GKコーチ(名古屋)などが出身です。

そんな名門にフットサルのフの字も知らない若造(19歳)が身を置くことになったのです。

まぁ怒られますよね。練習もキツいですよね。移動大変ですよね。

チームメイトは全国レベルでうまいし強いし速い。人数も17人くらいいたので登録メンバーに入るのも過酷な状況でした。
当然、簡単にはいかず、試合に行ってもベンチ外、ベンチに入っても2.3分の出場。が半年続きました。
(当時、登録メンバーは12名だった。)
半年が過ぎようやく主要セットに入れてきた頃でした。私に今のクラブの当時の代表が声を掛けてくれました。

『ジュニアユースを立ち上げるからコーチになってくれないか?』

と。私は悩みましたが引き受ける事にしました。
引き受ける理由の一つとして元ペスカドーラ町田の篠崎選手もやるとのことで必ず自分の為になると思ったからです。

そうして私はCRAQUESのコーチになりフットサル指導者としてのスタートを切ったのです。
選手を続け、指導者もやる。一見難しそうですがすごく充実していました。

以降、選手は7年Praia Grandeに所属し、県選抜も候補ですが招集されそれなりに充実した選手生活でした。そしてCRAQUESのTOPが発足されるとの事で選手としても身を置く事を決意しました。

次回は

『私の自己紹介(指導編)』

です。

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