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『デカローグ』―見つめ返すことの奇跡―

クシシュトフ・キェシロフスキの『ふたりのベロニカ』(91)に、覚めて見る夢のような場面がある。ポーランドに住む娘ベロニカが、ある日クラクフの広場で、もう一人の自分を発見するのだ。パリからやって来た観光バスが広場の空間をぐるりとターンする、その刻々に変化する角度の窓ガラスの内側に、もう一人の自分が自分を見ている。自分の生活、自分の存在を、どこか遠くにいるもう一人の自分が見つめ返している。ここで見る者が感じることを言葉にすれば、そういうことになるのだろう。現実にはあり得ないそんな状況が、しかし、おのがじし一人だけで生きていく我々ひとりひとりの生を、不思議な力で癒し、励ます。

このポーランドの映画作家が1988年に作った10連作『デカローグ』を見ながら、『ふたりのベロニカ』のシーンで感じたことが鮮やかに甦ってきた。『デカローグ』には、見つめること、見つめ返すことというモティーフに対し、見る者が繊細にならざるを得ない場面が豊かに存在するからだ。

たとえば、『デカローグ』第1話『ある運命に関する物語』では、「世界はすべて数理計算によって把握できる」という数学者が、「計算によって把握」し得ない超絶的な存在によって息子を生贄のように奪われる、という悲劇が描かれる。が、そのファーストシーンにキェシロフスキは、唐突で鮮烈なシークエンスを挿入している。街角のテレビに、多分コマーシャルに出演していたのだと思われる息子の顔が映し出され、それを発見した叔母が激しく泣き始める。物語の時制としては明らかに未来に属するはずの場面を、冒頭にまるでイコンのように映画全体を照らす象徴的な映像として置くこと。それは、この映画作家が他の映画でも試みている方法だが、この場面になにものも侵しがたい悲劇性を与えているのは、ひとえに、叔母が見ている子どもが、決してこちらを見つめ返してくることがない、という一点ではないか。

第9話『ある孤独に関する物語』には、妻が情事を重ねるアパートの窓を見上げ、路上でたたずむ夫がいる。第2話『ある選択に関する物語』には、愛と死のはざまで煩悶する女が、アパートの廊下で窓の外を眺め続けている。キェシロフスキの映画にあって、見つめるという一方向の視線は、常に人をしんと静まり返った「ひとりぼっち」の時間と空間に立ちすくませる。だからこそ、見つめ返すという視線のベクトルがいったん彼の映画に現れるとき、それは人間を孤独と寂寥から救い出す稀有な瞬間となる。

第5話『ある殺人に関する物語』には、映画がかつて描いたことのないような、凄まじい殺人の場面が2箇所ある。犯罪としての殺人と死刑という名の殺人。その二つの異常な殺人の場面に挟まれるようにして、一つの印象的なシーンが出現する。死刑の確定した殺人犯が裁判所から連行されていくのを、弁護士が二階の窓から見つめる場面。この典型的にキェシロフスキ的と言い得る孤独な視線の場面は、しかし、次の瞬間、意外な展開を見せる。弁護士が思わず殺人犯の名前を呼んで彼に呼びかけてしまうのだ。カメラはそこで、下の男の視線となって、上の弁護士を見上げることになる。人が人を見つめ返すこと。それがこの映画にあって、二つの殺人の連鎖の輪をぎりぎりのところで断ち切る。人間を「殺す種」であることから、かろうじて救い出す。

第6話『ある愛に関する物語』は、団地の向かいに住む若い女を、窓から望遠鏡で覗く男が主人公となる。覗くことによって紡がれるのは、あくまで「欲望に関する物語」にすぎない。覗く男と覗かれる女との間に「愛に関する物語」が生まれる可能性は、当然あり得ない。だから、奇跡が起こるのは、あり得ない唐突さで男が女に愛を告白する瞬間ではない。あり得ない経緯で女が男の部屋を訪れる瞬間でもない。映画にさらにあり得ないことが起こる瞬間、すなわち、男の部屋から覗きこまれるだけだった女の部屋の中に、カメラが入り込む瞬間。そして、女が男の部屋を双眼鏡で覗き始める瞬間だ。それは孤独な視線が双方向に交わされることが「愛に関する物語」の起点になり得るという、真にキェシロフスキ的な奇跡の瞬間を作り出しているのだ。

http://www.ivc-tokyo.co.jp/dekalog/

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