『オーバー・フェンス』-身体の言葉、視線の言葉-

壊れてる人間、絶望してる人間を救うのは何か。そんなテーマを映画として描くやり方が、真っ直ぐで、揺るぎがなくて、爽やかだ。

キャバクラのホステス蒼井優が、ダチョウの求愛を真似て手足をばたばた動かすわ跳ね回るわの姿で、登場してくる。まともにそっちを見るのがためらわれるくらいイタい彼女の振る舞いが、でもこの映画の正しい入り口だ。彼女がそんな風にしないでいられないことの理由は、映画を見ているうちに想像はできるけれど、行動の理由よりは、行動そのものが、ストレートに彼女自身を語ってくる。言葉を介さない身体とアクションこそが、この映画の言葉なのだ。

離婚でぼろぼろに傷ついたあげく、世界をどんより眺めるだけで生きてるようなオダギリジョーは、最初は彼女の変てこな鳥ダンスを突っ立って眺めているだけなのに、だんだん彼女の身体を張った「求愛」に巻き込まれていく。巻き込まれながら、身体が動き始める。そのプロセスが、見せる。普段はてれんこやっていた野球の練習なのに、前夜の彼女との接触(と摩擦)に心乱されて、思わずヘッドスライディングしちゃう場面。函館公園で働く彼女に会いたくて、上り坂の坂道を本気で自転車を漕いじゃう場面。そんな場面を重ねながら、彼はアクションで、身体の言葉でしゃべり始める。結果、眺めてるだけの存在が、眺められる存在に変わっていったりもする。

眺める、と言えば、この映画では、視線も饒舌にものを語る。「その憐れむみたいな目がいやなの」と最初はオダギリを責める蒼井が、だんだんとオダギリのひたむきな視線に捉われていく展開。視線が人を遠ざけ、視線が人を結びつける。オダギリが通う職業訓練校の仲間たちとの、最初のとげとげした視線のやり取りは、あったかい見交わしあいに変わってくる。そういう視線のドラマの必然として、野球試合のグランドでオダギリが蒼井を目で探し、蒼井もオダギリを目で探すっていう忘れがたい場面が生まれる。その視線のやりとりを糸口に、あの鮮やかなラストシーンが、ぽんと投げ出されてくる。

空間にきちんと仕事をさせているところも、さすがの山下敦弘監督。狭い一卓を囲んで視線が濃厚に絡み合う居酒屋の空間。人々の視線が集まったりほどけたりする劇場みたいなキャバレーのフロア。仲間たちとのだべりにゆったりとした時間が流れ出すグランドの片隅。オダギリが不意に心をあふれさせる広々と明るい港の桟橋(その空間を捉えた映像がいきなり横に走り始める素晴らしい仕掛けも、見逃せない)⋯⋯。

人間っていいなっていう素直な感想に、映画っていいなっていう感覚がくっついている。素敵な映画だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?