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居ずまいと佇まい

居住まいは座る姿。佇まいは立ち姿。それに関するあれこれを感じることが、最近は多い。齢七十に近くなり、自分の体形や姿勢の変化に気づくことがあるからか、人の「姿勢」に関心を惹かれるようになっている。

居住まいと言ってすぐに思い出される絵がある。北斎が晩年に描いた『胡蝶の夢図』という肉筆画だ。題材となっているのは荘子による不思議な逸話で、蝶としてひらひら飛んでいた夢から覚めてみると、蝶への変身を夢として見ていたのか、それとも蝶の見ている夢こそが本当の自分なのか、分からなくなってくるというもの。半醒半睡で胡坐をかいた荘子がふらふらと揺れている。その「揺れ」そのものを描こうとしている絵のように見える。ふと自然界に溶け入ってしまい、その一部として存在する自分に気づく瞬間、万物に向けて身体を開き委ねるかのような、そんな存在の揺れがここには描き込まれているように見える。八十八歳、自ら「神妙の域」と称した画匠の境地が、この何とも言えない角度に傾く上半身に顕れているようなのだ。

胡蝶の夢図

居住まいも佇まいも人の姿勢を表す言葉だけれど、それを人以外のものに使ってみる。そんな癖みたいなものが、いつの頃からか身についてしまった。きっかけは、夜明け前の散歩で街をぼんやり眺めていたときだったように思う。暁の空の微かな光を受けて、家やビルの壁と窓がほんのり明るんでくる。そのとき、彼ら(と、既に建物を擬人化している)の顔が普段とは違って見えた。一日の始まりに何かを待ち受けるような、そんな期待にも似た顔が、確かにそこにあった。そんな風に見えてしまうと、今度は日没後の時間、残照を浴びる壁からは過ぎていく日を振り返る名残り惜しげな顔が浮かび上がる。

そんな建物と壁には、どこか座って顔を上げているひとの姿勢を思わせるものがある。そこに待つとか惜しむといった表情を、感じてしまう。人は現在の前後にある時間に対して、常に何らかの構えや思いを抱きながら生きているのだろう。そんな面持ちは、そびえ立つタワーや高層ビルなどの「佇まい」にではなく、「居住まい」を思わせる低層の建物にこそ感じられてくる。

佇まいという言葉からも、様々に思い起こすものがある。例えばロマン・ロランは『ベートーヴェンの生涯』という伝記を、こんな一文で書き始める。「彼は背が低くずんぐりしていて、首の太いがっしりした体格を持っていた。」読んだとき、これは立ち姿を描いているのだと思った。例えばブールデルという彫刻家が生涯に四十五作も作ったベートーヴェン像は、ことごとく頭部の彫像になっている。しかめっ面が凝り固まったような渋面が、この作曲家の分かりやすいイコンではあるだろう。ところが、ロランは音楽家の屹立する姿を読者に見せようとしている。耳が聞こえなくなるという境遇をものともせず、と言うよりそこに敢然と挑むのが人生の目的であるかのように、この芸術家は強く美しい音楽を書き続けた。そんな人物は立っている姿として描出するべきだ。評伝作家のそんな思いが伝わってくる記述ではあるだろう。

昔、十和田市現代美術館にロン・ミュエクの『スタンディング・ウーマン』を見に出かけたことがある。人の背丈の三倍はある巨大なおばちゃんが、しわや血管、毛穴まで本物そのものと見える凄まじいスーパーリアリズムで作られている。タイトルが示すような立ち姿は、ふと何かに気づいて立ち止まり見咎めるようにそれを眺めているポーズ。肌の質感の恐るべきリアリティに加えて顔や身体の表情の生々しさに唖然としつつ、それが巨大な姿になっていることの異様さに驚かされる。気づいたのは、これを見るひとの佇まいも作品の一部になっていることだ。観客は背筋を真っ直ぐに伸ばし、のけぞった格好で上を仰ぎ見る。巨大なものを見上げるとき、人の姿勢は自ずと畏敬を表す形となる。それも含んで、何気ない日常の一瞬に人間の尊厳を垣間見る異化の瞬間が作り出される。

スタンディング・ウーマン

見上げる姿勢で思い出すのは、武蔵国分寺公園の二本の木だ。一つはシラカシの木で、公園が出来た二十年前は人の背丈より少し大きいくらいだったのが、今や遥かに仰ぎ見る巨木に育っている。プロポーションのいい木で、枝分かれした幹がゆったりとしたカーブで上に伸びる様は、見ていて穏やかでいい気持ちになってくる。鳥や虫を憩わせ養いながらゆっくりゆっくり成長し、やがてひとを見上げさせる姿になっていく。育つというのは優雅で美しい営みなのだと、その形が教えてくれているように思える。

もう一本、その大きさと高さとでこの公園を統べるような威容を見せるムクノキがある。その前に立つたびに、厳粛なとでも言いたい気持ちが湧いてくる。地面にがっしり広げた雄渾な根からは、大地の養分を吸いあげる圧倒的な力が伝わってくる。見上げると巨大な幹からは意外なほど繊細な枝が広がっていて、空に巡らせた編み目は見ていて時がたつのを忘れるくらい美しい。地に這う根と同じように空に伸び広がった枝たちは、天から光や雨を授かる。ひとが上に向けて手を広げているような祈りの姿に、それは見えてくる。

大江健三郎は『洪水はわが魂に及び』という小説で、「樹木の魂」と「鯨の魂」の双方と交感して生きる男として、主人公を描いている。彼が大地の樹と大海の鯨とが交信する光景を幻視する場面など、作家の想像力の強烈なダイナミズムに眩暈がするようだ。それと同種の感懐を、このムクノキは自分に呼び起こす。大地と水と空を繋げる存在としての大樹。この小説には、『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の言葉が引用される箇所がある。「Prayer is an education」。祈りは教育であると言われて、これを読んだ十代の頃はぴんと来なかったけれど、樹の営みの形を眺めているとそれが腑に落ちる気がする。祈りの姿は、人に様々なものを教えている。この樹の佇まいを見ていると、そう感じないわけにはいかないのだ。

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