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教会の戒めと赦し Ⅱコリント2:5-2:11 

2023年11月5日 礼拝


Ⅱコリントへの手紙
2:5 もしある人が悲しみのもとになったとすれば、その人は、私を悲しませたというよりも、ある程度――というのは言い過ぎにならないためですが、――あなたがた全部を悲しませたのです。
2:6 その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、
2:7 あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。
2:8 そこで私は、その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧めます。
2:9 私が手紙を書いたのは、あなたがたがすべてのことにおいて従順であるかどうかをためすためであったのです。
2:10 もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。
2:11 これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

タイトル画像:ritomaruによる写真ACからの画像

はじめに


教会戒規という言葉を聞いたことがあるでしょうか。教会における罪の処罰のことです。クリスチャンであっても馴染みの少ない戒規について今回は取り上げていきます。

悲しみのもととは


2:5 もしある人が悲しみのもとになったとすれば、その人は、私を悲しませたというよりも、ある程度――というのは言い過ぎにならないためですが、――あなたがた全部を悲しませたのです。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

パウロが伝道し建設したコリントの教会は、宣教当初は救われて信仰を持つ人が大勢現れました。彼は、約1年半にわたってコリントの教会に福音を述べ、豊かな実を結びましたが、救われた信徒を指導し教育をする人材に欠いていたのでしょう。その後、パウロがコリントを後にした後、入れ代わり立ち代わり他の教師たちが、コリント教会の牧会を引き継ぐということになります。特にアポロがコリントに関わるようになりました。ところが、コリント教会において問題が頻発することとなります。どのような問題が起こったのかといいますと、パウロに対する使徒性への疑問やそこから派生して分派問題、性的な問題も起こりました。その内容として近親相姦、不品行、結婚の是非といった問題。また信仰的な諸問題として、偶像に供えた肉の問題、異言の問題、復活の否定等々、多岐にわたり、キリスト教信仰の崩壊スレスレというような深刻な状態でした。このような状況のもとパウロは、テモテを代理として派遣した後(Ⅰコリント4:17)コリント第一の手紙を書き送りました。

パウロは、信仰が逸脱し、御言葉に聞き従わないコリントの教会に対して厳しく第一の手紙で処罰したものの、パウロは厳しいことを書きすぎたように思って悔いていましたが、テトスを通して、コリントの教会が悔い改めて、パウロを誹謗した者を処罰したということでした。教会内で罪を犯した人を処罰することを戒規(かいき)といいます。さて、この戒規とはいったいどのようなものなのでしょうか。

教会戒規

戒規(かいき)とは、キリスト教を信仰する者が他人(教会内の人)に対して犯した罪を戒められ、悔い改める期間を設けることです。戒規の対象にはさまざまな罪がありますが、教会史を見ると性的罪が多かったことが分かります。その罪は、既婚者が他の人と肉体関係を持つことや婚前交渉も含まれます。

教会戒規には、訓戒、陪餐停止、除名の3段階があります。戒規は、教団および教会の清潔と秩序を保ち、その徳を建てる目的をもって行なわれます。戒規は、誤った教理、罪の行いに対して行使される、キリスト教会の教育、訓練としては極めて稀なものです。必ずしも公になされるものではなく、マタイ伝18章15節以下にみられるような個人的な訓戒も戒規です。教会戒規について新キリスト教辞典では以下のように紹介されています。

■きょうかいかいき 教会戒規
教会員の生活の秩序と純潔を保つために法規を適用すること,教会が教職及び信徒に与える処罰,を言う.
 1.その根拠.
 根拠は聖書であって,実例としては,(1)罪を犯した兄弟に対する処置(マタイ18:15‐17),(2)父の妻を妻としている不品行な者に対する処罰(Ⅰコリント5:1‐13),(3)神を汚した者に対する態度(Ⅰテモテ1:20),(4)キリストの教えのうちにとどまらない者に対する処置(Ⅱヨハネ9‐11節)などを挙げることができる。
 2.その歴史.
 (1)初代教会は,パウロやヨハネの記述に見られるように,聖書とイエス・キリストに従わない教えと行動に走った者に敢然とした処置を取った.(2)4世紀の初め頃から教会の教権階級制度が発達し,破門,痛悔,告解などの信徒に対する処断の権限は,完全に司祭の手中に置かれるに至った.中世においては,懲戒権は完全にカトリック教会のものとなった.(3)プロテスタント宗教改革以後,英国教会を初めとするヨーロッパにおける国教会では,教会員を処罰することは市民権を剥奪することを意味していたため,それはほとんど不可能であった.(4)これに対して,ヨーロッパやアメリカのフリー・チャーチでは,概して,戒告,陪餐停止,除名などの処分がなされている.
 3.その目的.
 戒規は極めて重要であり,かつ必要である.その目的は,(1)教会の中から罪を取り除くこと,(2)キリストの誉れを守ること,(3)教会の純潔と建徳を維持すること,(4)罪を犯した者を回復させることである.
 4.その内容.
 (1)カトリック教会では,教会刑罰と呼ばれる詳細な規定がある.例えば,懲戒罰(破門,聖務停止,聖職位剥奪など),補償的教会罰(出入停止,教会墓地への埋葬拒否,罰金など)である.(2)プロテスタント教会では,教派によって内容は多少異なるが,教職に対しては,戒告,停職,免職,除名など,信徒に対しては,戒告,陪餐停止,除名などが含まれている.
 5.その様態.
 戒規の執行に当って心しなければならないことは,(1)敬虔な態度,(2)思慮深く,分別のある態度をもってすることである.執行者は常にその目的をわきまえ,教会の徳を建てるために,誤った処置をすることがないようにするべきである.
 戒規は常に聖書に基づくもの,あるいは聖書に基づいて教会が定めた規約や実践にそうものでなければならない.また,教会の処罰に服し,真実な悔い改めを示す者に対して,教会は常に寛大な心で彼を赦し,回復させなければならない.→教会政治.(竿代忠一)

新キリスト教辞典 『教会戒規』 いのちのことば社

戒規の断行を行ったコリント教会


コリント教会が、パウロの勧めによって悔い改め、悔い改めの結果、パウロを誹謗した人たちも処罰されたのですが、パウロはここで、コリントの教会に対して勧めを行います。

2:6 その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、
2:7 あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

パウロはテトスからコリント教会の造反者に対する処分について聞きました。そこでパウロは造反組を除名にして教会から追い出すように言ったでしょうか。いや、そうではありません。パウロは、その人を赦すよう教会に勧めたのです。

 たしかに、造反した人はパウロを悲しませました。パウロに対して根拠のない悪口を言いふらして、パウロを傷つけるだけでなく、分派を作る原因となった可能性は否定できません。私たちの普通の感覚からすれば、除名して、教会から追い出すということがなされてもおかしくないことです。戒規という裁きを行うということは、教会員の生活の秩序と純潔を保つために教会が教職及び信徒に与える処罰ですから、それだけでも、心情的につらいものであったことでしょう。パウロもこうした処分は悲しんだことかと思いますが、教会の当事者間同士で裁く、裁かれるという事態に及んだことは、教会全体の悲しみとなりました。

教会はこうして、処罰を行い、その結果、その人は悔い改めるに至りました。(6節)そこでパウロは、処分されてその人が深い悲しみに耐え切れずに信仰が崩れ、キリストから離れることのないように、赦しを教会に勧めます(7節)。

2:7 あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。
2:8 そこで私は、その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧めます。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

7-8節を見ていくと、教会はその人に対する処罰を解いて彼に対する愛を確認するようにとありますが、処分をくだされた人に対する厳しい目というものがあったことは事実でしょう。

使徒パウロに背き、悪口を言いふらすということはあってはならないし、教会の主流派から白い目で見られていたのは当然でしょう。処罰の詳細はわからないとしても、その人が、教会員たちから仲間外れにされ、ましてや信頼は失われていたと想像できます。そうした人たちに対して、十分反省したのだから赦すよう、パウロはコリント教会に次のように働きかけます。

パウロの赦しの勧めの目的


2:9 私が手紙を書いたのは、あなたがたがすべてのことにおいて従順であるかどうかをためすためであったのです。
2:10 もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。
2:11 これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

福音に従順になること

まず、彼の手紙は敵対者への個人的な恨みや怨嗟からではなく、教会が福音に対して従順であるかどうかを試すために書かいたものであるということです。パウロはここで寛大にも、教会が福音に従順であれば問題ないとしました(9節)。なぜなら、誰しも罪人ですし、誤った方向に流されやすいのです。気をつけなければ、私たちも善悪の判断がつかないものです。善悪を判断するのは、福音と御言葉に従順であるかどうかです。私たちの罪のために御子イエス・キリストが十字架に架けられたことと、復活によって私たちの罪が贖われた事実と、御言葉が何を言っているのかをしっかりと保ち、従順でなければなりません。

キリストの権威を教会は持つ

第2点目として、パウロ自身は彼を赦す用意が出来ているが、条件があります。まず、教会が赦すという点にあります。パウロは、自分の使徒性を中心には考えておらず、あくまでも、主体は教会にあることです。パウロはあくまでも、教会を助ける働き手であり、教会の権威ではありません。
しかし、彼の赦しは、教会のためであり、さばき主キリストの御前での赦しであって、パウロは教会の立場の優位性を認めつつも、自分が赦したことはヨハネによる福音書20:23でキリストが12使徒たちに与えられた権威があることを主張しています。つまり、パウロの赦しは、キリストが赦したのも同じだということでしょう。ですから、パウロは、コリントの教会に勧めを与えることができるのです。

ヨハ 20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

今日、使徒の存在がないので、最終的な責任の拠り所といえば、それは教会にあります。教会は、裁く権威を与えられているということです。教会は教会内の罪を監視し、教会の中で正しくさばく必要があります。そのために、教会には、罪をさばくために責任と権威が与えられていることです。聖徒たちが、やがては「治める者」となることが教えられています。コリント第一の手紙の中で、パウロ は、私たちクリスチャンが未来において、世界や御使いまでさばくような者にあることを訴えました。今教会内の些細な問題くらい自分たちでさばく必要があると伝えたのです。かつては自分の罪ゆえに滅ぼされる運命にあった私たちに、「さばく」という権威が与えられているのです。ギリシャ語のカラット「さばく」ということばは「判断する」ということばの同義語でもあります。私たちはどのような人が救われて、どのようにすれば救われて天に行けるのかとい うその方法をはっきり知っています。それを知っているのは私たちクリスチャンだけなのです。神が救 いに至る道を備え、それを私たちに示してくださったから、私たちは救われたのです。イエスの大きな 犠牲があったからです。

赦しはサタンに欺かれないため

3つ目として、この赦しはサタンに欺かれないために必要だということです。もし、仮に赦さなければ、その人は信仰が崩れてサタンのえじきとなるであろうし、赦さない教会も、福音の原理である愛と赦しから逸脱してサタンの思うつぼになるからです。(11節)赦しということは、私たちはほとんどすることのないことでしょう。実は赦しは、非難と同じ程度の権威があります。非難はしがちではありますが、赦さないことはよくあるものです。

ところで『赦し』ということは、ヘブル語で、「覆う」という言葉を意味しており、贖いを含んでいる言葉です。ですから、しばしばいけにえと関連して用いられる言葉です。旧約聖書では、罪の赦しには動物のいけにえが伴います。罪の赦しの祭儀のために、人は牛や羊などのいけにえに自分の罪を転嫁し、その動物を殺して血を流します。この罪なき動物の血によって、人の罪は贖われ、赦されるのです。ヘブル書9:22にあるように、血を流すことがなければ罪の赦しはありません。この赦しはいけにえそのものに何か力があるから与えられるのではありません。赦しはあわれみ深い神の性質によるものです。罪人が信仰によっていけにえをささげる時、神は恵みによって赦しを与えられるのです。
このような恵み深い神の赦しに対して、人間が求められていることは善い行いや、いい人間として生きるということではなく、神に対する悔改めと信仰でした。

新約聖書においても、『赦し』を表すことばは、ギリシャ語のカリゾマイ「恵み深く扱う」という意味ですが、新約聖書では赦しに対して積極的な意味が付け加えれています。コロサイ書3:13では、

コロ 3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

だからといって、他人を赦したからといって何ら功績にはなりません。私たちにとって、赦すということはなすべきことをなしたにすぎないからです。
しかし、この赦すという意志は、クリスチャンの特権でもあります。

赦しは神がキリストにあって罪人に与えられるものです。キリストこそ罪の赦しの基礎です。赦しは、キリストの十字架の贖いのみわざのゆえに、悔い改めて信じる罪人に与えられる恵みです。

神は、悔い改める者の罪を赦してくださるあわれみ深い方です。しかし罪は、その償いがなされないかぎり赦されません。では、どのように償うのでしょうか。実は、償う方法は人間にはありません。

さきほども旧約聖書での赦しのなかで説明した通り、罪のない動物の血が流されない限り赦されることはないのです。それゆえイエス・キリストがその償いを、いけにえの動物に代わって、神の子羊となり、わたしたちが負いきれない罪の償いを負ってくださったのです。罪人がこの贖いを受けることができるために求められていることは、悔改めと信仰です。

戒規と赦しと愛は軌を一にしていること


戒規という言葉は耳慣れないし、また、教会員に対して行うということも、めったにないことでしょう。わかりやすく言えば、教会が信徒に対して叱るということです。現代、そうした考えはどうかと思う人もいるかも知れません。

例を挙げれば、親が子供の健全な成長のために叱ります。叱ることを手控えたなら、子供が誤って学習してしまい、手がつけられなくなるということもありうることです。そこにあるのは、子供への愛です。愛があった上で叱るのが親が子供に対して行うことです。

パウロもコリント教会に対する姿勢というのは、親が子供を思う気持ちに他なりません。戒規と赦しという、一見結びつかないような教会の処分の中に、実は愛があるということです。

パウロがコリント教会に望んでいたことは、あの人が悪いというようなレッテルを貼ることではなく、教会が一つになって、同じ方向を目指すために必要な措置であったということです。

パウロは、厳しい処分を教会に求めましたが、そこには、教会と教会のメンバーを愛する愛にあったからこそ、涙を呑んで、コリントの教会を導いたのです。

情にほだされてパウロは戒規を行ったのでもなく、赦しを勧めたというのでもありません。それは、教会と信徒に対する愛であり、キリストに対する従順と愛を含んでいることです。

キリストのからだを保つためには、教会の清潔と秩序がとても重要です。一人ひとりを甘やかすことではありません。イエス・キリストの十字架の苦しみと流された血潮を思えば、私たちがどう教会で生きていくべきかがわかるものです。

今回は、戒規と赦しについて学びましたが、叱られて嫌な思いをするとか、傷つく、傷ついた心を癒やすための赦しというようなレベルでの処分ではないことを知っていただければ幸いかと思います。そもそも、私たちは戒規など起こらないような牧会や教会成長、信仰生活というものを目指していきましょう。その根底には、イエス・キリストの十字架があることを覚えていければ幸いです。アーメン。