見出し画像

変わる人生と責任 Ⅰペテロ4章4節

2022年6月26日 礼拝

【新改訳改訂第3版】Ⅰペテロ
4:4 彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。
ἐν ᾧ ξενίζονται μὴ συντρεχόντων ὑμῶν εἰς τὴν αὐτὴν τῆς ἀσωτίας ἀνάχυσιν, βλασφημοῦντες:

RitaEによるPixabayからの画像



| はじめに

古代ローマ帝国の文化の源泉は、刹那主義にあることを前回紹介しました。人生は儚くもろいもの。来世という概念はなく、人生の労苦に対しての報酬は楽しむしかないと考える思想背景にありました。
とはいいましても、死者の魂や、亡霊というものの存在は認めていました。死後魂はなくなると考えてはいたものの、実際には、死者の霊におびえ、何とか霊を鎮められないかと考えてパレンタリア祭等、死者の霊を宥(なだ)める祭りを盛大に行っていました。死者の霊の祟りを怖れていたことが、古代ローマの偶像礼拝の基礎になっていたのです。

しかし、こうしたローマの死生観に異議を唱えたのは、他でもありません。キリスト教でありました。

キリスト教は、人生というものが死で終わるものではなく、
永遠という概念が人間に適用されるようになったのは、イエス・キリストにおいてであることをはっきりと宣言したのです。
しかも、永遠のいのちに入るのは、死の時に起るのではなく、人がキリストを信じて、キリストとの人格的関係に入る時に生じることを明らかにしたからでした。
今回は、来世があることでどう人生が変わり、同時に変えられた人生に対する責任というものを考えていきたいと思います。

| 精神的な荒廃

古代ローマの人々、ここではローマ市民と限定しますが、ローマ市民はどういう生活や文化を営んでいたのかといいますと、前に紹介した記事の中で、

浪費と放蕩三昧に明け暮れるローマ市民の文化について述べました。その中で、現代の私たちが見ても呆れるほどの内容でありました。
ローマ市民であるだけで、食べ物と娯楽を無償で与えられ、豪華な公衆浴場に宴会、男女ともに浮気は当たり前、果てはコロッセオでの見世物など、特に富裕階級の生活ぶりは、歴史上稀に見るほどの贅沢であったとあります。快楽を追求し、その極みに立った古代ローマ。 一方でその裏には退廃し堕落しきった現実があったのです。

そうした、退廃的な文化に対して、今日取り上げる聖書の言葉を『放蕩』と訳しています。ギリシャ語本文を見ますと、ἀσωτίας(アソーティアス)という言葉ですが、このアソーティアスの意味をたどると、正しくは、救えないもの(消耗・荒廃)、比喩的には、放蕩、過剰な行動とそれがもたらす悲惨な結果による精神的な荒廃を意味するのです。

ギリシャ語本文で、ἀσωτίας ἀνάχυσιν(アソーティアス アナクーシン)と熟語になっています。新改訳は、ここを『度を過ごした放蕩』と訳しますが、正確には、『溢れだす放蕩』と訳したほうがふさわしいでしょう。
この言葉の通り、事実古代ローマ市民生活は溢れ出る放蕩の限りを尽くしていました。その結果、深刻な精神的な荒廃を生みます。為政者は、市民に「パンとサーカス」を無償で提供します。

現在の社会福祉政策のように思われますが、それは為政者による恩寵として理解されていました。食料の配布のときには、物乞いのようにして食料の受給が行われました。こうした行為は、大衆にさらされることもあって、受給対象者の拡大を防ぐことができたそうです。政治家たちは、大衆の支持を獲得するためにしばしば食糧の配布を行ってたそうです。皇帝の中にも、処刑した富裕市民の没収財産を分配したネロ帝や、金貨をばら撒いたカリグラ帝など、衆愚政治の道具として用いられていたようです。

こうして、食糧に困らなくなったローマ市民は、次に娯楽を求めるようになります。こうした市民の要求に対して、権力者はキルケンセス(競馬場)、アンフィテアトルム(円形闘技場)、スタディウム(競技場)などを用意し、毎日のように競技や剣闘士試合といった見世物を開催することで市民に娯楽を提供しました。こうした娯楽の提供は、当時の民衆からは支配者たるものの当然の責務と考えられるようになり、これをエヴェルジェティズムといいますが、共同体における有力者に求められ、人気と尊敬の源泉となりました。
ところで、こうした制度は何を招いたのかといいますと、働くことを放棄した者と、富を求めて働く者との貧富の差が拡大し、ローマ社会に歪みをもたらしました。

| 信仰に生きる者は放蕩に走らない

衣食住が満たされると、人間は、どうしても放蕩に走るのは世の常であります。働くことをおざなりにし、遊興や、飲食、性の乱れにつながるものです。しかも、この世しかないと考えるならば、そうした放蕩に拍車がかかるのは当然です。

しかし、イエス・キリストを信じると、こうした放蕩は罪であることを示されます。自分勝手に生きる人生は悪であることを認識するようになるのです。こうした意識の変化は、キリスト教の思想を学ぶから生じるものではありません。信じる一人ひとりのこころの変化が生じるのです。

放蕩はいけないと知ったとしても、それは、放蕩を行う者も知っていることです。知識や思想を学んだ、知ったからといって人間は変わるわけではありません。

イエス・キリストを信じることによって、私たちは自分たちの罪の存在というものがより明確になり、自分が行っている過ちというものを認識するようになります。

こうした、こころの変革は、イエス・キリストの聖霊による刷新においてなされるものです。

ペテロの手紙の読者の中には、ローマ市民であって、かつては市民生活をあふれるほど享受し、贅沢の限りを尽くしても何とも思わず、それが自分の権利であり、特権であると信じて疑わなかった人々もいたでしょう。そうした人の中で、イエス・キリストを信じて救われた人が生まれました。

彼らは、ローマ市民の生活や文化を創造主なる神への背徳や冒涜とみなすようになりました。過剰な欲望や行き過ぎた放蕩は罪ではないのかと考えるようになっていきます。

その結果、かつてのローマ市民としての生き方をやめ、神が喜ぶような生活を志すように変えられていきました。そうした姿を周囲はどう思ったかといいますと、『不思議に思い』とありますように、自分たちとは違うという目でクリスチャンたちを見るようになりました。

今までは、朝から晩まで酒に溺れ、食べたいときにたらふく食べ、世も昼もお構いなしに性の饗宴を繰り広げるような乱れた生活から身を引くとなると周囲はどうしたのか、気が狂ったのかと思ったことでしょう。

事実、『不思議に思い』と訳された部分、ξενίζονται(ゼニゾンタイ)ですが、ここでの意味は、『驚愕する、戸惑う、ショックを受ける』という意味になります。

ですから、当時、イエス・キリストを信じたローマ市民の変わりように対して、かつての友人や家族は、その変わりように驚いたり、戸惑う、ショックを受けるというような事例があったのでしょう。ローマ文化とクリスチャンの生き方の軸がひっくり返るようなものであったこともあって、驚くのも無理はありません。

| 真摯に社会に向き合うこと

ローマ文化とキリスト教倫理とは、ほとんど共通点はありません。この地上の欲と、来世の希望には天と地の差がありました。むしろ、対立をひきおこすものでもありました。

当時のローマ市民にとって、クリスチャンの行動は、奇妙に思えるばかりか、ショックを与えるものでしたから、その反応というのは辛辣なものであったかと思います。

現代の日本にあっても、飲み会に誘ってみたけど、飲み会には行かない、夜のクラブに出かけていたのに誘っても行かないというようなことになれば、あいつ付き合いが悪いと言われかねないものです。

日本以上に破廉恥な行為が認められていた古代ローマ社会では、信じる前と信じた後の変化の激しさに多くの人は戸惑ったに違いありません。単に付き合いが悪いと言われるだけではなかったでしょう。クリスチャンの生き方にショックを受けたに違いありません。現代でいうなら、洗脳されてしまったと言われかねないものであったかと思います。

今回取り上げた聖書のことばに『また、悪口を言います。』と記されてあります。βλασφημοῦντες(ブラスフェームーンテス)の訳ですが、その意味は、「 悪口を言う、非難する、中傷する、冒涜する。非難するように話す、嘲笑する、中傷する、冒涜する」という意味があります。

当然、古代ローマ社会のクリスチャンたちは、キリスト教とは相容れない文化の壁の中で、もがき苦しんだに違いありません。
いわれのない中傷や、デマ、悪口に苦しんだと思われます。
しかし、こうしたことは地上にある限りなくなることはありません。

むしろ、クリスチャンであることをこの世に積極的に証ししているという姿が表れているからこそ、悪口や非難を受けるということだということです。
この世に妥協をしていたら、私たちは、悪口や非難というものに苦しむことは少ないでしょう。

当時のクリスチャンたちは、悪口や非難覚悟で信仰を持っていたということを知らなければなりません。

しかし、一方で、こうしたキリスト教に対する偏見や知識に基づかない一方的な中傷によって苦しむことによって、護教家教父たちが活躍し、キリスト教に対する非難に対して弁証を行っていました。それはある意味、伝道の機会でもありました。

自分たちの信仰がどういうものであるのか、教会とはどういうものであるのか、また、献金についてどうなのか。クリスチャンとお酒の関係とは?
教会政治はどのように行われているのか等々、疑問になる部分への説明責任というものもクリスチャンに問われている気がします。

クリスチャンに対する悪口や中傷は避けられないものですが、
同時に、誤解を受けないように説明を果たしていく、これが、現代の教会にも求められていることであり、
あまねく全世界に伝える手段が与えられている現代の教会の役割であるということをおぼえていく必要があるのではないでしょうか。
真摯にこの世に向かいあうことが、証しであり、今の私たちに求められているということを教えられます。