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2022年5月1日 礼拝

ヨハネによる福音書21章12節
イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」

| 聖書箇所 ヨハネ 21章1-14節

新改訳改訂第3版
ヨハネによる福音書
21:1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。
21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
21:8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
21:9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
21:10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
21:11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。
21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
21:14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。

| はじめに

今回は、主イエスの復活後、二度ほど弟子たちの前に現れました。今回取り上げるテベリヤの湖畔での顕現で3度めということになります。ここで語られている大事なポイントは、主に気がつかないという点です。主を信じてはいても主の存在を見失うということがあります。今回は、ペテロたちすなわち、使徒たち姿を通して、主を見失うことと、信仰の回復について見ていきたいと思います。

| 傷心のテベリヤ湖畔への逃避

ヨハネによる福音書
21:1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。
21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

ここに記されているテベリヤの湖とはガリラヤ湖のことを指します。テベリヤは、ガリラヤ湖の北西岸に位置するイスラエルの都市。都市の名はローマ皇帝ティベリウスに因んで名付けられたことに由来しています。
さて、使徒たちは、イエスの死後ガリラヤを訪ねます。

理由は、ユダヤ教徒からの迫害によって、エルサレムの滞在の危険があったものと思われます。また、潜伏先に住まうなかで、限られた支援での籠城生活というものに疲れたということもあったでしょうし、支援者の身の危険を考慮した場合、エルサレムから逃避するという選択しか考えられなかったのではないでしょうか。

故郷のガリラヤに逃げれば、イスラエルの辺境の地ということもあり、追手からの逮捕からも逃れられるでしょうし、献身以前の職業に戻って生計を維持できると考えたのかもしれません。いずれにしましても、主の亡き後、復活したとは言いましても、その顕現は限定された期間のなかでのことであって、十字架の前のように弟子たちとともに歩むことはありませんでした。そうした主の消失は、弟子たちの拠り所の消失でありました。

勝てば官軍

勝てば官軍、負ければ賊軍ということわざがありますが、主イエスが十字架に架けられたということは、ユダヤ国内のおいて、キリスト教信者は賊軍扱いといっても差し支えないでしょう。彼らは、ガリラヤへ行ったと聖書は短く記すだけですが、それは、敗軍と表現してもおかしくないものです。棕櫚の主日にエルサレムに勝利の王のように凱旋した主イエスと弟子たちは、いずれは、エルサレムの王として迎えられるだろうという期待をもって、弟子たちは勇んでエルサレム入城をしたのではないかと思われます。しかし、イエスの十字架によってもろくもそうした期待はすべて消え失せ、自信喪失の状態にあったことでしょう。

エルサレムでの籠城生活の中で、明日からどうやって生きて行くべきか、使徒たちは話し合ったに違いありません。皆以前の家業に戻っていくのか、自分の家に帰るべきか、帰ったところで、逮捕されるのではないか…といった不安を話あっていたのではないでしょうか。このガリラヤへの逃避は、彼らにとってはまさに正念場、大きな壁に突き当たった時期であったのです。

突破口を開くために

そうした不安の解消のために、また、行き詰まった人生の出口の打開を試みたのが、ペテロでした。
夜にガリラヤ湖に漁に出かけていくことにしました。夜に漁を行うことにも意味がありました。それは、日中だと、ペテロたち使徒であることが判明してしまう可能性もありました。また、漁業組合があったかどうかわかりませんが、夜間に魚を採るということは、密漁を疑われる可能性もあったかもしれません。いずれにしましても、彼らにとっては、漁に出ることにもリスクが伴っていました。そうした中、小舟を漕ぎ出していきます。

凪の湖面に一つの波紋が拡がりました。ペテロが、湖面に網を打ったのです。彼は、自分たちの食料の確保ということ、それから、この難局を乗り越えるために、先行きをどうするかと考えることよりも、先ずは何とか動かなければならないという衝動を抑えきれなかったのでしょう。

自力はやりやすい

ところが、何度網を下ろしても、魚を採ることはできなかったのです。彼らの行動は失敗に終わりました。やれることは精一杯やったことでしょう。しかし、彼らの行動は失敗しました。
ところで、彼らの失敗の原因はなんであったのでしょうか。私たちは闇雲に行動すれば良いというものではありません。考えるより動くが吉と考える人も多いのですが、信仰者にとっては、それが最善とは言えません。

伝 11:1 あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。

ということばが聖書のなかに記されていますが、そこにあるのは、ただ闇雲に事を行えば良いということを伝えているのではありません。事を行うときには、信仰を持ちつつ行うということです。ペテロたちは、復活したイエス様とお会いになったとしても、彼らの胸中はどうだったのでしょうか。
彼らは、復活したとしても主は戻ってこられないという悲観しかなかったのではないかと思います。

悲観や落胆の中で、彼らが行ったことはといえば、主に信頼し、祈るのではなく、自分の力で何とかするという自力の考えが真っ先にありました。

| 主イエスの存在に気がつかない

ヨハネによる福音書
21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
21:8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。

東雲の空が白み始め、夜が明ける頃です。主は岸辺に立ち、弟子たちの小舟を眺めています。すると、主は、「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」と大声で声をかけます。
『子どもたちよ』と呼びかけますが、この言葉は、弟子たちへの愛を表現しているのは事実ですが(ヨハネ4:49参照)、職人や年下に対する呼びかけにも使われていた言葉ということです。このように解釈すると、通りすがりの旅行者が、魚を買いたいと思って質問しているように解釈できるそうです。
弟子たちにとって、このイエスの言葉は、主ではなく、たまたま湖畔を通りがかった人が呼びかけたように聞こえたようです。

この時点では、主が呼びかけたということに彼らは気が付きませんでした。さらに、主は呼びかけて、小舟の右に網を下ろすように言われると、おびただしい魚で網がいっぱいになったと記しています。
こうしたこともあって、ヨハネは、その呼びかけた人が誰であるのかを確認すると、紛れもない主イエスであることがわかりました。ヨハネは、ペテロにその事を告げると、ペテロは漁師の上着を裸にまとい、湖の中に飛び込んで主のもとに泳ぎ出しました。

何の魚も取れなかった漁でしたが、主が言われると、その網ははち切れんばかりになったのです。

ヨハネによる福音書
21:11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。

プロフェッショナルとプライド

ヨハネによる福音書
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

おそらく彼らは、夜通し、主が語られた場所も網を投げ入れたに違いありません。また、ペテロ、アンデレ、ゼベダイの子ヤコブ、ヨハネは、もともとが漁師の出身ですから、それなりのキャリアがあったはずです。生計を営む力があったわけですから、プロの仕事をしていたわけです。プロ中のプロが普通ならば、一介の旅人の助言に耳を貸すはずはあろうはずがありません。耳を貸して網を投げてみようとしたということは、彼らのプライドが完全に打ち砕かれるほどの不漁であったことを示唆しています。

ヨハネによる福音書
21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」

主のことば通りに行うと、それは尋常でない大漁でした。その奇蹟を前にしたヨハネはかなりの驚きをもったに違いありません。普通の人が出せる指示ではない。これは、イエス様に違いないと心のなかでつぶやいたことでしょう。ヨハネは、あらためてその声を確かめ、闇に目を凝らしてみるとイエス様であることがヨハネには、はっきりとわかりました。

なぜ、そこまで気がつかなかったのかと思うことでしょう。明け方早いということで当然、まだ暗いこともあったでしょう。岸から100メートルほど離れていたということもあり、完全に目視できる状況ではありません。また、時折、小舟を打ち付ける波の音や風の吹く音に声がかき消されてしまったこともあるかもしれません。こうした中に、置かれたときに私たちはどうかといいますと、弟子たちが気がつかなかったことを笑うことはできないでしょう。

普通の中の普遍

ところで、日常の些細な出来事、ごく当たり前の生活、こうした背後にある、その基盤となってくれているのは主の細き御声です。主のご計画や、意図、ご意思というものは、あまりにも壮大過ぎる、あるいは極微であるために私たちの認識を超えているものばかりです。主は偏在する神と言われますが、偏在しすぎてそれが当たり前になっているからこそ、主の存在に気がつかない事態に陥っているというのが私たちや弟子たちに共通することです。

カトリック教会では、奇蹟を記念にしますが、これは決して悪いことではありません。しかし、私たちはもう一歩進めて、奇蹟を見たから信じるのではなく、ごく当たり前の日常や普通さの中にあっても普遍なる主を見出す、心の繊細さというものを磨く必要があるのではないでしょうか。

私たちが生きているだけでも奇蹟。
絶えず揺れ動く日常の中で、保たれているのもこれはまさに主の奇蹟です。

弟子たちは、プロフェッショナルとしてのプライドを捨てなければならないほど行き詰まっていました。こうしたときに、やっとのことで、助言に従って生きることで主を見出したわけですが、私たちもプライドを捨て去らなければならないような時、ようやく主の恵みに気がつくというような、失態を重ねたくはないものです。

| 絶望からの夜明け

ヨハネによる福音書
21:9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
21:10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
21:11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。

ペテロをはじめとする使徒たちは、傷心の思いと現状を打開するために漁に出ていきます。プロとしての自負と、自分で生きられる力を持っているという自負が、彼らを支えていたのかもしれませんが、結果は無惨なものでした。いくら網を打ってもダメでした。彼らが長年積み上げてきたキャリアも役に立たず、夜通しの漁は、まったくの無益なものでした。
こうした絶望に打ちひしがれている夜明け前に、主は彼らの前に現れてくださったのです。

彼らが、大漁の魚の網を注意深く水揚げするために、岸まで舟を寄せ、魚を引き揚げるとその数は153匹捕れたということです。この数は、小さな魚は含まれていないということです。小さな魚は、取らずに放流してしまうことから、大きな魚のみの数だと言われています。相当な数の魚が網にかかかったということでした。その奇蹟もさることながら、陸に上がってまず驚いたことは、主イエスが、彼らのために食事を用意し、給仕してくれていたということでした。

ヨハネによる福音書
21:9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。

ここに記されていることは、彼らが、漁をせずとも主は彼らの生存の欲求を満たしてくれていたということです。

この節を見ますと、他の聖書の箇所を思い起こす人もあるかもしれません。ペテロにとっては、この光景を目にした時、自分が経験したことを思い出さずにはいられなかったかと思います。

9節を見ますと、炭火とあります。ペテロにとっては、炭火を見たときに、受難のときの事を思い起こしたのではないでしょうか。そして、彼の胸中には悔恨の思いがよぎったのではないかと思います。

ヨハネによる福音書
18:18 寒かったので、しもべたちや役人たちは、炭火をおこし、そこに立って暖まっていた。ペテロも彼らといっしょに、立って暖まっていた。

新改訳改訂第3版

また、パンと魚を見たときに、最後の晩餐のときと、5000人の給食の奇蹟を思い出したのではないでしょうか。

マタイによる福音書
14:19 そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。

さあ来て、朝の食事をしなさい

ヨハネによる福音書
21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。
21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
21:14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。

夜が明けると、主は、朝食をするように使徒たちにうながします。それは、彼らの空腹を満たすのに十分でした。あれほど、苦労して漁に出ていったのですが、まったくの不漁で、主がお言葉をかけられてようやく漁にありつけるという始末。しかし、主は彼らの不信仰を叱るでもなくなじるのでもなく、「さあ来て、朝の食事をしなさい。」と優しくお声をかけてくださいました。自分でやらねばならない、自分たちでなんとかしなければならないと自分に喝を入れて何事も自分しだいと考えてしまう私たちの意識を変えることばではないでしょうか。

主イエスの招きに応える

主は、私たちが事を行う前から十分な準備をし、私たちを給仕して待っておられるお方です。しかも、いつも私たちを招いてくださっている。
その招きに応えるときに、私たちの人生の夜明けが待っているのです。
今、苦しみあえいでおられる方、ペテロたちのように、壁に突き当たってどうにもならないともがいている方、拠り所を失い、不安を抱えている方がおられるなら、あなたのためにいのちをお捨てになったお方が、あなたを招いておられることを覚えてください。

主イエスのことばに従った使徒たちを見てください。自分たちで話し得なかった漁の成功がありました。
自分で事を打開しようとすることは簡単です。
しかし、その結果は無惨なことに終わることも多いのは事実です。
聖書が保証していることは、主の御言葉に信頼する時、平安の道へと誘われることが約束されています。これは事実です。いにしえから現代にいたるまで、主の御言葉を懐疑的にとらえるならば、結果は明白です。
あなたは祝福されたいでしょうか。祝福を求めているなら、主の御言葉に信頼すべきです。

自分を主イエスにゆだねる時、信じる時、あなたに暗闇からの夜明けが待っていることを聖書は熱く語っています。3

ぜひ、イエス・キリストをあなたは信じてみてはいかがでしょうか。
あなたの人生に夜明けが訪れます。