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若い人たちへの懇願───謙遜になること               Ⅰペテロ5章5節

タイトル画像:John HainによるPixabayから

2023年5月14日 礼拝

Ⅰペテロの手紙
5:5 同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
Ὁμοίως, νεώτεροι, ὑποτάγητε πρεσβυτέροις. πάντες δὲ ἀλλήλοις τὴν ταπεινοφροσύνην ἐγκομβώσασθε, ὅτι [Ὁ] θεὸς ὑπερηφάνοις ἀντιτάσσεται, ταπεινοῖς δὲ δίδωσιν χάριν.


はじめに


長老や教会のリーダーはイエス・キリストの体現者であり、信徒を支配することは決してないことを紹介してきました。同時に、長老やリーダーに約束されているものについて、ペテロの言葉を通じて神の御心を探ってきました。長老や教会のリーダーたちは羊飼いとして群れを導き、保護し、養っていかなければならず、信仰の指導や教育、慰めや助言などを行うことが求められています。また、信徒たちも自分たちが羊として、羊飼いに導かれる立場であることを意識し、教会の指導者たちを支援し、共に神の御国を建て上げることが求められるということを伝えました。今回は、5節を取り上げていきますが、今までは長老に対するペテロの懇願でしたが、今回は『若い人たち』に向けての内容です。

同じように


1ペテロ5:3を振り返ってみましょう。

5:3 あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。

出典:新改訳聖書 いのちのことば社 『ペテロ第一の手紙』

とありますように、長老や牧師たちに対して、群れの模範になるようにと教えられました。

ペテロは、この5節において、他の役職に属さない人たちに対しても『同じように』Ὁμοίως(ホモイオース)と語りかけています。

5節では長老や牧師たち教会のリーダーから、対象が『若い人たち』に向けられているということです。

ペテロ5章5節では、『若い人たち』νεώτεροι(ニューテロイ)とありますから、教会の若い人たちが長老に服従し、互いに従順であるようにと勧めていると読めます。ところが、この『若い人たち』νεώτεροι(ニューテロイ)という言葉は、必ずしも年齢を意味するものではないようです。

長老たちに対して、信徒は「年下」または「後輩」と呼ばれることがあります。それは、年齢の点においては、『若い人たち』と訳された人の方が年上かもしれないということを示唆してます。

また、パウロも同じように、コリントのクリスチャンたちを 『息子たち 』と呼んでいることから、ペテロが『若い人たち』と書き送った、この言葉の解釈は単に年齢を指すものではないことと理解することが、最も自然なものであるように思われます。

『若い人たち』という言葉には、奉仕者、教師、朗読者などの役務に就いていた人々への呼びかけであるとする解釈も否定できません。(使徒5:6、使徒5:10)。

ところが、教会の中にあって、信徒や、奉仕者や教師らが、長老やリーダーに対して反抗や従わないという危険性があります。

教会も人間の組織です。裏を返せば、それは罪人の集まりです。社会に見られる組織の問題が、教会の中に現れるということは十分ありうることです。

したがって、主イエス・キリストの贖いの血によって結ばれた関係が崩れ、自分たちの欲と利益、馬が合うといった肉による関係性が教会の中に現れるというのは現実的な問題です。

こうした課題に対してペテロは、同様に『若い人たち』に勧めているということです。

教会の健全性はどこにあるのか


先に述べたように、『若い人たち』という表現は、単に年齢に基づいているわけではなく、役割や地位に基づいている可能性があることが指摘されています。つまり、長老よりも若い年齢の人であっても、役割や地位によっては『若い人たち』に含まれることがあり、その逆もまた同様です。

さらに、長老よりも学識が高い人が『若い人たち』に含まれる可能性もあるとされています。また、奴隷の出身であっても、立場が変わることで長老として指導的な役割を果たすこともできるという可能性もあります。

つまり、『若い人たち』という表現は、単純な年齢に基づくものではなく、役割や地位、学識、経験など、様々な要素が含まれる可能性があることです。

実は、この『若い人たち』という言葉の裏には、世俗的な価値観が教会に入り込み、信仰の価値に置き換わってしまうことが問題であるということが示唆されています。

例えば、地位や学識、経験などの世俗的な価値が、教会の中で重視され、人々の評価や格付けが行われることがあるということです。

しかし、信仰においては、人間の社会的地位や物質的な豊かさに基づく価値観ではなく、神の愛や恵みに基づく価値観が重要であると考えられます。教会の中では、このような世俗的な価値観を排除し、誰でも等しく神の前で立つことができるという理念を持ち続けることが大切です。教会は世俗的な価値観から解放された、神の愛と恵みに基づく共同体であるべきです。教会の中では、人々は神の目で等しく評価され、誰もが神の恵みに触れることができるという理念を大切にすることが必要です。

それから、何よりも人が救われるということに重点を置かなければなりません。そのためには、偏見を持たず、すべての人に対して救いの手を差し伸べることが必要です。

人間は誰しも神にとっての価値があり、神の愛に包まれている存在であり、誰もが救われることができます。そのため、私たちは偏見や差別を持たず、すべての人に対して愛と思いやりを持って接することが大切です。しかも、救いに関する判断を自分たちで行うことはできません。私たちは誰が救われ、誰が救われないかを判断することはできません。そのため、すべての人が救われるように、私たちは祈り、愛と思いやりをもって接することが大切であり、それがキリスト者としての使命であり、教会のいのちなのです。

世俗のポジショニングを超える

当時の教会において、奴隷出身の指導者に対して、自由人が従えたでしょうか。あるいは、アテネのように哲学の本場において、学識や学力、誰かれの門下であったということが幅を利かす中での伝道は、世俗的な格付けとの戦いもあったのだろうと考えられます。

もちろん、この手紙を記したペテロは、もともとガリラヤ湖の漁師でした。ユダヤ人にとっては無学な田舎者という烙印をまとった人物でした。現代の基準からして教師として世に認められるためには、ペテロは失格でしょう。

たしかに奴隷出身の人々や無学な田舎者が指導者となることは珍しかったでしょう。しかし、キリスト教の思想は、人々を平等に扱うものであり、その思想が広がるにつれて、社会の様々な階層にいる人々が教会に参加し、指導者となることができるようになった組織であります。

そうした柔軟性が教会の発展を支え、ダイナミックな伝道を生み出したことは事実です。社会のスタンダードを教会に導入し、社会の物差しを導入した時にキリスト教は、その弾力性を失い、硬直化した信仰にならざるをえないことでしょう。

クリスチャンは、教会の指導者を社会的地位や権力によって評価するのではなく、その指導者の信仰や奉仕の姿勢を重視して、従うことが大切です。教会の指導者も、羊飼いとしての自覚を持ち、謙虚であり続けることが求められます。そして、教会に属する全ての人々が、互いに愛し合い、奉仕し合うことで、キリストの愛を世界に証しすることができるのです。

若い人と新しい人


『若い人たち』という言葉は、νεώτεροι(ニューテロイ)というギリシャ語であることを紹介しましたが、このニューテロイはνέος(ネオス)が原型です。ネオスという言葉が派生して、英語のNewという言葉の元になっています。『若い人たち』と日本語では訳されておりますが、ネオスとは、「時間的に新しい」ものを示しています。古いものであっても、人々にとって新しい啓示であるもの、つまり、これまで目撃したり経験したことのない「新鮮な」ものを指すことがあります。

ネオスとは、ヘブル12:24の中で「新しい契約」という訳で使用されています。つまり、ネオスとは、イエス・キリストを信じる信仰に始まる信者の新しいアイデンティティのことを指しています。

コロ 3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

出典:新改訳聖書 いのちのことば社 『コロサイ人への手紙』

この新しさには、信仰という神の働き(賜物)を継続的に経験する能力が含まれています。

実は、長老も信徒も同じニューテロイであることがわかります。両者とも立場は違えど、仕え合う立場であることは、こうした単語を見てみれば理解できることです。

ですから両者とも謙遜に生きることが求められます。教会に問題が起こるのも謙遜さが欠ける点にあります。

『謙遜』と5節にありますが、ὑποτάγητε(ハイポタゲーテ)と書かれています。このハイポタゲーテの原型はハイポタッソー。意味は、「神の手配の下に」、つまり主の計画に服従することです。

ハイポタッソーは、古代の用語で軍の将軍が兵士を「戦略目標を達成するために、最善の順序で配置すること、任務を遂行するために、『自分の権威の下に配置すること』」という意味があります。

ですから、謙遜とは言いますが、その意味というものは、置かれた場所で置かれた位置を受け入れ、神のために最大限の努力を果たすことを意味していることばということです。

ですから、私たちは、納得できない立場や処遇であったとしても、そうした中にあっても、主は何を期待し、何をその人に求めているのかを考えながら、つまり、御心を探りながら主の栄光のために生きるということです。

身に着けること


Ⅰペテロの手紙5:5
同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。

『身に着けなさい』と訳されたἐγκομβόομαι(エグコムボーマイ)という言葉があります。正しくは、何かが固定されている状態を表す単語です。「たくし上げられた」というように訳される言葉です。 比喩的に、「服を着た(しっかり帯びた)」状態を示す言葉です。ところで、このエグコムボーマイという単語は、珍しい動詞で、もともと「結び目で丸く縛る」という意味です。 特に奴隷が着るフロックやエプロンに使われ、衣服として自分に着せる、(奉仕のために)身につける」という意味を持っています。この5節では、御霊の働きによる謙遜の恵みに身を包むために使われています。

この動詞から作られたΕγκομβωμα(エンコムボーマ)は奴隷の白いスカーフまたはエプロンを示す名詞です。この単語でペテロが示しているのは、イエスが手ぬぐいを巻いて弟子たちの足を洗ったことを想起しています。特にペテロに謙虚さの教訓を教えたとき(ヨハ13:4以下)のことであると考えられます。

ヨハネによる福音書
13:14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。

出典:新改訳聖書 いのちのことば社 『ヨハネによる福音書』

つまり主が弟子たちの足を洗った場面を明らかに思い起こさせることと同時に、御霊を身に着けるという意味を持つことから、非常に意義深い単語です。このとき、ペテロは、使用人としての立場をとり、足を洗うタオルを身につけ、言葉と行動の両面から宣教の教訓をすべてのクリスチャンに向けて語った言葉です。その背後にあるのは、聖霊です。

ペテロを弟子や教師、使徒として足らしめたのは、聖霊の働きによるものです。聖霊を豊かに頂いていたからこそ、その偉大な足跡を歩むことにつながりました。一言で偉大とは言いましても、その報酬は、逆さ十字架という刑に向かうものであり、人間的に言えば、つらく悲しい最後を迎えるものでしたが、神の御心からすれば、彼の歩みはキリストの弟子としての歩みを全うしたものでした。

うぬぼれは敵


Ⅰペテロの手紙5:5
同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。

『神は高ぶる者に敵対し』とあります。ここで、『高ぶる者』ὑπερηφάνοις(ヒュペレーファノイス、原型:ヒュペレーファノス)が使われています。その意味は、「超えて輝く」で、すべての栄光を得るべき神ではなく、自分に注目させる者を表す言葉です。自惚れるという意味を持つ言葉です。

アウグスティヌスは、この単語を「自分の優秀さを過剰に愛すること」であり、それは自分を神の代わりにすることにつながるとしました。 
それゆえ、グレゴリウスは、「大罪」とし、あらゆる悪徳の源であると考えました。
トマス・アクィナスは「 悪魔と最初の人間の罪」であると言います。

つまり、高慢というのは、人間と切っては切れない関係を持つ性質であり、私たちは常に、高慢という誘惑にかられやすいという性質を持っているものだという自己認識は大事です。こうした前提がある以上、高慢を避けるためには、自分自身を知るということが大事になってきます。

特に、メッセンジャーにはこういう誘惑があります。教会でメッセージを語るときには「人々に感銘を与えよう」という思いに駆られます。ですから、教会は、真理の宣教を犠牲にして、魅了するメッセージを行う説教者にはことさら注意しなければなりません。

神は、長老、信徒問わず、そのどちらにも神への栄光と神への服従を等しく求めていることがわかります。私たちはあくまでも神の被造物に過ぎず、神の栄光を反映して生きるものとして召されていることを覚えなければなりません。分をわきまえず高ぶり、神に栄光を帰せず、自分が注目されることばかりを求めるものとして、私たちは召されている者ではないことです。

適用


今回語った言葉を見ていきますと、自我というものを十字架に付け、聖霊の満たしによって生きるのでなければ、私たちはいともたやすく、神の栄光を損なうものに変質してしまうことがわかりました。

教会は、何を根拠にして存続するものであるのか。それは、タペイノス(謙遜)にあることです。キリスト者として歩むためには、キリストの栄光を表すことのみが、私たちを輝かせるものとなるのです。自分を輝かせようという生き方でないことが、今回の御言葉からも明らかです。

ここから、自己中心的な生き方や自己陶酔による栄光への追求を避け、謙遜な心を持ち、聖霊の導きを求めることが重要であるということが示されています。つまり、自分自身を中心に考えず、他者を尊重し、協力し、神の御旨に従うことが重要です。そのためには、自分自身に対して正直であることが大切です。自分が何をしたいのか、何を求めているのかを客観的に見つめ、自己中心的な欲求にとらわれず、他者と協力することを心がけることが必要になってきます。

さらに、自分自身の価値や才能を誇示することを避け、謙虚な心を持ち、周囲の人たちと共に成長することが大切です。

また、聖書や祈りを通して、聖霊の導きを求めることも重要です。神の御旨に沿って生きるためには、聖霊の力を借りて、自分自身の欲求や誤った判断から解放されることがより必要になります。

聖書や祈りを通じて、自分自身の中にある神の声を聞き、神の御旨に従うことができるように私たちは迎えられていることを覚えましょう。