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危機の時代にあって──つぶやき合わない       Ⅰペテロ4章9節

Title a photogragh by manfred Kindlinger via Pixabay

2023年1月8日 礼拝

Ⅰペテロの手紙4:9
つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。
φιλόξενοι εἰς ἀλλήλους ἄνευ γογγυσμοῦ:

はじめに


Ⅰペテロ4:7で、ペテロは、当時のクリスチャンに『万物の終わり』の時代に近づいてきたことを語りました。特にローマでは、ローマ大火の犯人がクリスチャンであるとして、皇帝ネロの激しい迫害に直面するなど、終わりの時代が到来しつつあるということが切実に感じられた時代でもありました。そうした時代に必要なことは、祈りでした。祈りのために、心と精神を落ち着ける必要があるとペテロは説きます。

ところで、社会不安が人々の心を狂わし、不安と狂気に苛まれたのは、クリスチャンも例外ではなかったようです。そうした時代に、ペテロは、愛の大切さを説きました。その愛は、アガペーの愛です。アガペーの愛は、「愛される価値のない者を愛する愛」ということを意味します。神は私たち一人一人を尊重し、「価値ある者」と認めてくれるという愛です。
この神が私たちに示したアガペーによって生き、生かされていることに目を向けて歩むことが、終末の時代に生きる私たちへの指針であることをペテロは8節で語りました。

今回は、こうしたことを踏まえて、危機の時代にあるクリスチャンの取るべき行動について見ていきたいと思います。

つぶやきあわないこと


Ⅰペテロの手紙4:9
つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。
φιλόξενοι εἰς ἀλλήλους ἄνευ γογγυσμοῦ:

新改訳聖書 いのちのことば社

ペテロが活躍した時代の教会は、言うまでもなく、危急の時代でした。本来ならば、迫害や危険から守られるように、クリスチャン同士が助け合い、お互いが励まし合うべきところだと思います。

ところが、実際はどうであったのかといいますと、つぶやき合っていたことがみことばから推察できます。クリスチャン同士のコミュニティの中に、不満や不平があったということです。

『つぶやく』ということばは、γογγυσμοῦ(ゴンギスモウ)という言葉が用いられています。もともとは、鳩の鳴き声から由来の擬態語です。
鳩のグゥグゥという声が、あたかも、 くぐもった低い調子でつぶやく声に聞こえることから、不平不満をつぶやく様子として表現され、それが転じて、不平不満を示す意味として用いられてきました。

ペテロの時代の教会は、クリスチャンたちが、支えあい、助け合っていたのではなく、各々が不平不満をつぶやいていたということです。

なぜ、つぶやきがあったのか


Robin HigginsによるPixabayからの画像

不平不満が教会内に満ちていたのは、当時の迫害下における社会的な状況も否定はできません。キリスト教徒になったからといって、生活状況が好転したかといえば、むしろ逆でした。より苦しくなっていく一方であったかもしれません。

人は、状況が好転すれば、ハレルヤ!と賛美し、これは神の祝福とすぐに感じることができます。ところが一方では、状況が暗転した時、人はどうでしょうか。

状況が思わしくないときに、私たちはどう思うのかといえば、神のみこころはどこにあるのかと神に疑問を向け始める。それが、クリスチャンによく見られる傾向の一端ではないでしょうか。

また、自分だけが大変。なんで自分だけがこんな目に会わなければならないのかと、思っている時に不平不満として私たちの口からつぶやきが生じてきます。

不平不満は、独話ならば問題は少ないでしょうが、大抵の場合話がわかる知人や信頼できる友人にするものです。これが、教会内で行われると、当然教会内に分裂が生まれる要因にもなります。問題を共有するということがあれば、不平不満の良い点も多少なりとはあるかもしれませんが、多くは、問題が増幅し、不平不満を共有する仲間同士で党派を組むということに拡大するものです。こうして、サタンは教会の働きを止めようと動き出すきっかけともなるのです。

マリヤとマルタの事例


Johannes Vermeer, Public domain, via Wikimedia Commons

不平不満の記事として、よく知られているのがマルタとマリアの件ではないかと思うのです。

ルカによる福音書
10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

新改訳聖書 いのちのことば社

「マルタとマリア」の物語を読みますと、姉のマルタは、主イエスと十二弟子たちや、イエスの噂を聞きつけてその言葉に触れたいと願う大勢の人たちをもてなす用意をしていました。主イエスと人々を迎えるため、大忙しで食事と来客の準備をテキパキとこなす姿が印象的です。一方の妹のマリヤといえば、人が大勢来客しようが、お構いなしに主イエスの言葉に聴き入り、妹の姿を見た姉のマルタは、主イエスに不満をぶつけるのです。

この記事を見ますと、人をもてなすマルタと、もてなすことを忘れてみことばに聞き入るマリヤの対象的な姿があります。

ねばならない思考の背景

SilviaによるPixabayからの画像

マルタの主を迎えようと一生懸命になる姿勢とマリヤの主のみことばに聞き入る姿勢、そのどちらも、決して悪いことではありません。
マルタは、主を迎えることを最優先にしました。マリヤは、神のみことばを聴くことを最優先にしたということです。そのどちらも優劣をつけることはできません。

しかし、マルタとしては、いまやるべきことは、主のみことばを聴くことよりも、人をもてなすことが優先されることだろうと思っていたの違いありません。しかも、主のことばを聴くことは、怠けているようにも思えたに違いありません。

マルタとしては、「ねばならない」思考に捉われてしまっていたように思われます。マルタは、主イエスと来客を迎え「ねばならない思考」に陥っていました。「ねばならない」思考というのは何かが達成されなかった場合、その思いがストレスとなって自分に降りかかってくることになります。

マルタは、焦っていたのでしょう。主イエスのメッセージが終わり、主や弟子たち、大勢の聴衆をもてなす際に、不手際がないだろうかと思ったでしょう。人をもてなしたが、準備不足でマルタの家のもてなしぶりが酷いとか言われかねないだろうから猫の手も借りたいというのに、マリヤはあの通り、マイペースで何もやらない。じっとイエス様の足元で話を聞いているばかりじゃないかと。

10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

マルタは、自分の家柄が悪く言われてしまうことや家の恥というものを恐れていたこともあるでしょう。
私たちもそういう経験は多少なりとはあるものです。もてなすといいますと、結婚式の披露宴や、葬儀、パーティであるとか、宴会です。そうしたところの主催者ともなりますと、落ち度のないように会場を整え、恥ずかしくないように来客のための酒菜を準備し、満足して帰っていただくために、結婚式では結納返しを準備したりして心を砕くわけです。

そうした常識的な慣習や、そうした配慮や気持ちがわからないマリヤを見ますと、常識外れで全く人の気持が理解できない人だと思うでしょう。
ましてや、国中がユダヤ人の王として持ち上げていたイエス様です。まさに時の有名人が我が家に立ち寄って、講演してくれるとなれば、そういう名誉に預かるということになれば、当然、大勢の聴衆が詰め寄る。しかも、家が始まって以来の賓客ともなれば、どう対応すればいいのか理解できるはずです。そうした暗黙知を知ってか知らずかわかりませんが、マリヤは意に介せず、こともあろうか主のイエスの足元、つまり、名のある人たちが座る席にに座る、劇場でいえばS席に座るようなものです。そういう場にいる。こうした姿は、姉としても見てられなかったでしょうし、家の恥晒し者め!と思ったに違いありません。
時宜に応じた対応ができない人を見ると脳天に血が昇るというのでしょうか、そういう気持ちにさせられるものです。

マルタもそういう気持ちになりまして、その結果どうなったかといいますと、マリヤに対する愚痴をイエス様に言ったわけです。

10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

このことばは、至極まっとうなことばであると私は思います。常識的に考えれば、マルタのことばは正常と思うはずです。教会でも、こうしたことは言えます。教会の奉仕をおろそかにして、みことばを聴くとはどういうことかと断罪されることもあるだろうと思います。

犠牲を受けていると感じる時に

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仕事や奉仕をしていると、怠けているように見えてしまう人を断罪してしまう傾向があります。それは、根底には、喜んで仕事や奉仕をしているのではありません。自分がやらされている感や、自分が他の人よりも苦労していると思う時にマルタのような気持ちになるのです。自分は犠牲者だという感覚です。

職場でも同様な経験をよくするのではないでしょうか。毎日残業続き、しかも、同じ賃金の人が早く帰っているとなると、いつも早く帰る人を許せなくなります。同一賃金同一労働なら問題はないのですが、社会はそういうように平等にはできていません。

そうした、労働の非対称性があちこちにあるわけです。もちろん、教会のなかにもあります。目立つ奉仕と目立たない奉仕。いずれも神の前では大事な働きです。しかし、人間社会のベクトルに置き換えたらどうか。もちろん、ピアノの奏楽や、賛美の独唱やメッセンジャーに脚光が当たります。中には、名司会者と呼べるような素晴らしい司会者もおりまして、そういう方々の賜物に憧れたものです。私自身特別な能力もありませんでしたから、食事の用意や掃除、給仕、トイレの清掃・・・といった目立たない奉仕ばかりでした。また、目立たない奉仕を主のためにと真面目に頑張っている人たちは、偉いなぁと尊敬したものです。しかし、一方でこの奉仕の差は、一体なんだろうかと思う人もいるのではないかと思います。
(ちなみに、私は奉仕していた教会で、十三年間トイレ掃除専門でしたので、トイレ掃除は任せてください!)

余談はこれぐらいにして、不平等に感じる時に、私たちは、自分の置かれた状況を見て叫び声を挙げたくなる傾向があり、その差が著しい時、周囲の評価を受けない時にわたしたちはつぶやくということだろうと思います。

互いに親切にもてなし合いなさい


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組織になるとつぶやきあうことが、当然ともなる間柄にあって、クリスチャンが心がけなければならないことは、9節にありますように『互いに親切にもてなし合いなさい』ということです。それは、一方が楽をして、他方が苦労をするという状況を作ってはならないということです。

『もてなす』と訳されたギリシャ語、φιλόξενοι(フィロクセノイ)ですが、直接的な意味は、「見知らぬ人を愛する」という意味です。フィロクセノイの元にある単語フィロスは、「 大切にされる友人、個人的な愛情の緊密な結合で大切にされる信頼できる親友」という意味があり、単に形式的にもてなすというものではありません。相互に親友と呼べる状態が『もてなす』という言葉に込められている意味です。

友人(フィロス)とは、「『秘密を託す者』......人は、最も親密で貴重な秘密を、自分が愛し、信頼する者にのみ託すからである」。
Cf. Philo, Dreams 1.191
『神の言葉は、ある者に、何をすべきかを権威的に告げる王として語りかける。. . . 他の人々にとっては、それは説得力のある優しさをもって、俗人の耳には聞こえないような多くの秘密を明らかにする友人である』
C. Spicq, 3, 448

"5384 phílos", The Discovery Bible

フィロスという言葉を軸に『もてなす』と考えていくと、それは、深い友情につながれた関係ということができるでしょう。その代表例は、旧約聖書のダビデとヨナタンの関係をイメージするとわかりやすいでしょう。ダビデとヨナタンは、地位や立場を異にしていましたが、お互いに尊敬しあい、助け合い、お互いに自分の犠牲を厭わなかった関係を死ぬまで保ち続けました。そうした関係性こそが、この9節でペテロが伝えようとした『もてなす』ことの意味であって、少しでも失敗やミスがあると切れてしまうような希薄で、信頼感のない、その場しのぎの関係性ではないことが理解できます。

『つぶやき』が仲間同士の不平不満の共有なら、『もてなし』は仲間同士の友情の共有ということができます。

クリスチャンの関係性というものは、時間がたつにつれ深化し、お互いに依存せず、助け合い、主の福音を伝えるという目的を共有し、理解しあえる自立した人間関係ともいうことができるでしょう。そうした『もてなし』の極みが、イエス・キリストの十字架であります。彼は、私たちのために、つぶやくこともせず、たとえペテロのように、裏切ったとしても、その成長を信じ続け、その死の間際にさえ、私たちのためにずっととりなしてくださるという友情の模範を示してくれたお方です。

私たちは、神様からいただいた信仰を持っていますから、このイエス・キリストの『もてなし』というものを培うことができるのです。感謝!

コロサイ人への手紙  3:13
互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

新改訳聖書 いのちのことば社