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自他の区別が生じる前はどのような状態であったか

生まれたばかりの赤ん坊に自他の区別はない。

いつの頃からか、自己を認めた瞬間から(物心ついてから)、自分と自分以外とを区別しはじめる。

一たび自己を認めてからは、モノの見方がそれまでとは変化する。

私を主体とした、対象のある世界に変わる。

モノの見方が変わると、私とは別に、独立した対象があると思い込んでしまう。

あると思うのは習慣的なモノの見方によるものだけど、それ以前のモノの見方を私は覚えていない。

私という思い出す主体は、その様な見方をする以前に存在していないから。

そもそも思い出すとはどういうことか。

思い出す対象は「記憶」しかない。

記憶がなければ思い出すという行為自体が存在しない。

思い出すモノがなければ、対象を思考で取り扱うことも、意味付けすることも出来ない。

つまり、概念が存在しない。

概念があってはじめて、事実から「眼を逸らす」ことが出来るようになる。

いわゆる思考の世界。

記憶がない、事実の真っ只中にいる状態では、知覚しか存在しない。

つまり私はなく、ただ知覚(事実)しか存在しない。

知覚しか存在しないとき、私と言う存在と対象との間に区別はない。

見えたモノ、聞こえたモノしか存在しない。

私がそれ(対象)に「なる」ことで、直接的にそれを「理解」している。

知覚しか存在しないとき、私の存在は、私を刺激する外部の対象に依存している。

私という存在が、100%受身で存在している。

対象とは別に、経験の主体である「私」は存在していない。

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