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私という実体が無いのになぜ私がいると感じるのか?②

分別の過程が分かれば分別される前のことも解る

生まれたばかりの赤ん坊は、意図的に注意を向けたり、感覚を味わったりしない。

自己認識がなかったはずが、気付いたら「私(自我)」が生じている。

誰しも「私」を認めた瞬間がある。

物心付き始めた頃の、私を認めた過程を振り返ってみることで、自己を観察しやすくなる。

自我を消すのではなく、どの様に生じるのか、仕組みを看破することで、そんなものが存在しないと気付くことが出来る。

世界(環境)からの刺激に繰り返し反応することで、自然と私(自我)が生じてくる

生命は感覚(人なら五感)を持って生まれてくる。

網膜に電磁波が触れたら見えるし、鼓膜に音波が触れたら聞こえる。

ちなみにあらゆる感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚)は、触れて感じるから触覚(だけがある)とも言える。

赤ん坊には「私が見てる」、「私が聞いてる」という主体的な意識はなく、ただ、「見えている」、「聞こえている」という経験だけがある。

その経験が積み重なることで、自然と私(自我)という主体が生じてくる。

なぜ経験するだけで自我が生じるかの過程を理解出来れば、自我のない状態も理解し易くなる。

なぜ自我を生じさせる必要があるのか

生きるために必要(な機能)だから。

生まれてなければ必要ないけど、生まれたからには生きていく必要がある。

生きることが目的であれば、生きているだけで十分にも思える。

けれども、より良く、より快適に、より長く、という衝動(本能)に絶えず突き動かされる。

そのために他へ働きかける必要がある(より〰するため)。

自らを環境から分離し、モノゴトを分別し、二元的に扱う必要がある(知恵の樹の実)。

なぜ経験するだけで私(自我)が生じるか

赤ん坊は、ほぼ強制的に見え続けることで(見続けるではなく)、瞬間の風景が経験(情報)として蓄積されてゆく。

変化の少ない、同じ様な風景が続くだけでも、情報量が増すことで「差」に気付きはじめる。

たとえば「大きなもの」は「小さなもの」より視覚的な印象が強い(情報量が多い)。

「気付く」と言うより、情報量に偏りが生じはじめる。

一旦差が生じれば、僅かな高低差でも水が流れるように、重力の強い方へモノが引き付けられるように、モノゴトに変化が生じはじめる。

全てのモノゴトには情報量の差があるから、あらゆる感覚について、大きな反応、小さな反応として差(区別)や比較が起こりはじめる。

大きな刺激(情報)に対しては大きな反応として、注意が惹かれやすくなる(生まれたての意識のようなもの)。

初めは大雑把な差だけでも、次第により細かな、小さな区別が生じてくる。

木が一瞬見えただけでは、木という大まかな区別しかない。

見え続けることによって(瞬間が増すことによって)、より細かな部分(枝葉)に気付きはじめる。

情報量が増えれば解像度も上がる。

すべてのモノゴトは、注意の引きやすいもの、そうではないものとして、主従の関係(幹と枝葉とか)で結ばれはじめる。

それら一括り可能な範囲内で、木(幹、枝、葉で出来ているモノ)という観念が生じる。

観念が増えすぎても不便なので、階層的な構造を作りはじめる

単純な観念(幾何学的な〇と×とか)を区別するのは容易でも、複雑な観念(多数の要素からなった木とか)が増えるにつれ、判別が難しくなる。

すると、最も本質的な性質だけを切り離し、抽象的で、一般的な概念(植物とか)を作りはじめる。

たくさんの観念を同時に扱うことは、処理能力や容量的に難しいので、似たようなモノの中から共通点を抜き出し、種類毎にまとめはじめる。

このような区別の仕方は、単に理解の仕方において区別された抽象的な概念に過ぎない。

にも関わらず、私や木という固有の実体があるような錯覚が生じはじめる。

これらの概念が複雑に絡みあうことで、あるがまま、事実の世界とは別に、抽象的な世界が生じはじめる。

そもそもの認識といまある認識との違いが分からなくなる。

何が元からあって、何が後から付け足されたものなのか、区別することが容易ではなくなる。

複雑に絡み合ってしまった認識の束を、その発生期限まで、過程を遡りながら解きほぐすことで、元からある認識がどのようなものであったか追跡しやすくなる。

そのためにはただ只管に自己を観察して行くしかない。

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