見出し画像

囲碁の日本への伝来③ 日本と唐の交流


唐の建国と囲碁

 四三九年から一五〇年にも及んだ中国の南北朝時代は、北朝の北周が王室の外戚である楊堅によって滅ぼされ、続いて南朝の陳も滅び終焉を迎える。それにより五八九年に隋王朝が成立し楊堅が皇帝となる。
 楊堅(文帝)は学科試験により官吏を登用する科挙の実施や律令制(刑法・民法等)の整備、州県制などの新しい中央集権体制の確立など、大胆な制度改革に取り組み、その治世は開皇の治と称されている。楊堅は六〇四年に亡くなるが、一説には野心を抱く次男広(煬帝)によって暗殺されたとも言われている。そして即位した煬帝も度重なる高句麗への遠征や宮殿造営による人民の怨嗟と反乱により側近の手で殺害されている。
 こうして僅か四十年足らずで滅亡した隋に代わり、煬帝の母方の従兄弟である李淵が唐王朝を興す。


玄宗皇帝

 唐の時代は囲碁が盛んとなり玄宗皇帝(在位七一二~七五六年)などに多くの逸話が見られる。
 玄宗は囲碁好きの皇帝として知られる。玄宗といえば楊貴妃の魅力にメロメロになり国政を顧みなかったダメ君主のイメージであるが、これは晩年のはなしである。その晩年の玄宗の囲碁の逸話にも楊貴妃が登場する。帝が、ある夏の日、親王と碁を打っていたときのことである。賀懐智に琵琶の独奏をさせ、貴妃は局前に立って観戦をしていた。貴妃は帝の碁石をかぞえ、負けそうであったため、康国(サマルカンド)産の小犬を座席の側で放した。小犬は碁盤に飛び上がり、盤面をめちゃめちゃにしてしまったので、帝が大変喜んだというもの。玄宗皇帝晩年、美妾楊貴妃に溺れていたころの逸話である。

ここから先は

13,134字 / 7画像
この記事のみ ¥ 500

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?