見出し画像

三国志の囲碁① 魏

 中国の漢代末から三国時代(魏・蜀・呉)にかけての話をしよう。
 後漢時代に班固や馬融が囲碁の理論書を著わしたこともあり、三国時代には多くの人々に囲碁が浸透していく。
 三国時代を描いた小説『三国志演義』の登場人物たちにも囲碁の逸話が登場し演義に数多く記されている。『三国志演義』は明代に書かれた小説で、西晋代の陳寿による歴史書『三国志』が元となっている。『三国志演義』を基に日本でも小説や漫画、ドラマなどで「三国志」というタイトルの作品が多く作られ、この時代は中国の歴史の中で最も馴染みあると考えている方も多いのではないだろうか。
 
 三国時代は曹操の魏、劉備の蜀、孫権の呉と中国が三つの国に分かれて争った時代である。それぞれ魏が華北、蜀が四川、呉が江南を基盤としていた。
 群雄割拠のこの時代、英傑、名将、軍師と様々な人物が登場しているが、それらの人物の囲碁の逸話について語っていく。
 漢代末になると相次ぐ戦乱により儒教礼節の権威が低迷していき、儒・仏・道の三教が並び競うようになっていく。そのため、一部の知識人の間に戦争と権力に背を向け、世俗雑事を超絶し、貧を安んじて道を楽しむ風潮が高まり、深遠で風雅な品性を誇る人々が登場する。その代表的なものが「竹林の七賢」や「建安七子」と称された人物達である。また、君主や武将にも高い教養を身につけた者、立派な学者が多かった。
 そして、囲碁はそれらの人々の間にも流行し、皇帝や政治家、武将、文人にも名手や高手が多かったという。

太祖 曹操

魏太祖(歴代君臣圖像)

 魏は曹操により建国されたと思われがちだが、自ら皇帝に即位することなく、後漢の丞相という立場にこだわり権力を掌握している。当時の魏は帝国内の一藩国にすぎず、魏王でもあった曹操は建国の基盤を築き上げていったことから太祖と称されている。
 太祖曹操は兵法に通じるだけでなく文学や詩歌もよくした。囲碁はかなりの腕前だったと言われ『三国志魏書』によると山子道、郭凱といった当時の高名な打ち手と互角の実力だったという。
 『演義』には曹操が気に入らない相手や反抗する相手を殺すといった話が多く登場する。但し、『演義』は蜀の劉備を主人公として描いているため、曹操が悪役とされるのはやむを得ない面もある。
 これは曹操というより相手側の孔融、いや、その子どもたちの逸話である。
 漢に仕えていた孔融は孔子二十世の孫とされ建安七子(漢末の建安年間の超一流の七人の文筆家)の一人で、詩・頌・碑文・議論文・六言詩・対策文(天子の試問に答える文)・上奏・檄文・教令(下々に出す布告)など、全て二十五篇を著している。
 孔融は権力を掌握した曹操に対してもことあるごとに諫言するなどしていたために嫌われていた。そのため、呉の孫権の使者に曹操をそしる発言をしたとして捕らえられ処刑されてしまう。孔融には九歳の男子と八歳(七歳とする史料もある)の女子の二人の子どもがいた。二人は父が捕らえられたと知らされたときに碁を打っていたといわれ、周囲の者が「父が捕らえられたというのに何を悠長なことをしている。早く逃げろ」と言うと、「巣が壊れて、卵の割れぬということはあるまい」と返答したと伝えられている。父親が罪に問われてどうして息子が無事でいられようかという意味である。
 これは子どもたちの立派な振る舞いを記したもので、囲碁と直接関係あるわけではないが、当時はすでに子どもたちでも打つほど囲碁が一般に普及していたとも言える。
 なお、曹操が悪役として描かれているのは、聖人孔子の子孫である孔融を殺害したことが理由の一つとも言われている。

初代皇帝 曹丕

 魏を建国し初代皇帝となったのは曹操の子である曹丕(文帝)である。 建安二五年(二二〇)に曹操が亡くなると、丞相・魏王を継いだ曹丕は、漢の皇帝に禅譲を迫って自ら皇帝に即位、後漢は滅亡し魏が建国される。そして、これに反発して劉備は蜀漢を建国して皇帝に即位、後に呉の孫権はも皇帝に即位し、三人の皇帝が存在する三国時代が確立する。
 曹丕には文人としての側面もあり、特に深く孔融の詩文を好み、いつも嘆息して「揚雄・班固にも劣らぬ」と言っていた。天下に寡って、孔融の文章を届け出るものがあれば、その都度黄金や絹を褒美にやったという。
 自身が自身が著した文学論「典論」では、詩文が作られて文学が栄えることが国家経営の大業につながるという「文章経国」と呼ばれる政治思想を提唱している。 
 そんな曹丕にも囲碁に関わる残忍な逸話がある。
 曹操の跡を継いだ曹丕は同母弟の任城王(曹彰)が勇猛なのを憎んでいた。任城王へ任じるなど形の上では厚遇していたが、実際には優れた武勇を警戒していたという。
 そこで、母の卞太后の部屋で一緒に碁を打つこととし、曹彰が対局中によくナツメを食べていたことから、そこに毒を仕込んでおいた。自分は食べてよいものを選んで口にして対局していると、やがて王がそれとは知らず毒入りの棗を食べて苦しみ出す。太后は慌てて水を持ってきて手当てをしようとしたが、帝はあらかじめ左右の者に命じてつるべを壊させておいたので、裸足で井戸へ走っていった太后は水を汲むことができなかった。しばらくして王は息が絶えたという。帝は今度はもう一人の弟の東阿王(曹植)も殺そうとしたが、曹植は兄の策略をうまくかわして殺されることはなかったという。曹植は文人として天才的な才能を持ち、一時は曹操の有力な後継候補であったが、天才ゆえに自由奔放な行動が目立ち候補から脱落していた。亡くなるまで監視付きで地方へ追いやられているが、 一方で唐の李白・杜甫が登場するまでの中国を代表する文学者として名を残している。
 権力者となった兄が弟たちを殺してしまうというはなしは日本の歴史にも数多くあることである。
 曹一族は囲碁をするものが多く、曹氏墓地から碁石が発見されている。残念ながら誰が使用していたものかは判明していない。

建安七子 王粲

 魏の知識人で先の孔融と同じ建安七子のひとり王粲の逸話。
 王粲は博識で、古来の儀礼にも精通し、新しい儀礼制度の制定を主導するなど曹操に重用されている。
 王粲は人の囲碁を見ていて局面が乱れたため元に復元したという。しかし、対局者はそれを信じず、確かめるため打ち碁を並べて王粲に見せた後に、布で隠して別の碁盤に局面を作らせたところ一石の違いもなく復元されていたという。
 王粲の記憶力を物語るもので、他にも道端の石碑の文章を一読しただけで暗誦し同行の人を驚かせたという逸話もある。
 これに関して研究家の田振林氏と祝士維氏は「中国囲碁外史」にて、「彼が読んだ碑文がメチャメチャな落書き風の文章でダンゴになっていたはずはありません。王粲は碑文の表現の論理をたちどころに体得し、的確に再生して、彼の抜群の記憶力の一例としたのでしょう。王粲が碁を一手も間違えずに並べ直したのも同じ理屈です。たぶん、彼が並べ直した碁は、まったくの初心者によるメチャメチャな碁ではなかったはずでしょう。少なくとも碁の論理をわきまえた碁だったでしょう。(中略)上手は残らず相応に碁の論理を身につけている」と述べている。
 石碑に関することは分からないが、打ち碁を一から並べ直すことはプロ棋士はもちろん、ある程度の棋力を有するアマチュアでも可能である。それは両氏が述べられたように、打たれた手には論理的な意味がちゃんとあるからで、個人の棋風や棋力によって異なるが、その人なりの理屈がある。したがって意味を考えれば次の手が順々に出てくる。
 あるプロ棋士の方に伺ったことがある。「アマチュアの方を指導するときにたまにどこに打ったか並べ直せないときがある。また多面打ちのときにどこに打ったかわからないときがある。それがなぜ起こるかといえば自分の想定にない、これまでの流れに合わない、論理から外れた手であるから」というのである。
 なるほど、これは先の王粲の逸話と通じるところがある。プロ棋士やアマ高段者がスラスラと並べ直せるのはこうした筋道が良い悪いによらず出来ているからである。よく囲碁や将棋をされる方が「記憶力がいいですね」と言われる事があるが、囲碁における記憶というのは暗記とは違い、こうした流れによる記憶であると言える。
 王粲の囲碁の技量を見るものとして、曹操の子・曹植が記した『王仲宣誅』というものがある。王粲が世を去ったときに書かれたもので、曹植は王粲を絶賛している。その中に「囲棊は名手にして」という言葉がある。これだけでは棋力に関してはっきりとは言えないが、当時、高段の実力があったのではないかと推測される。

建安七子 応瑒

 王粲と同じ建安七子の応瑒の囲碁論について述べよう。応瑒は河南省汝南の住人で、都の洛陽からおよそ三五〇キロ離れた遠隔の地であるが、中央の文化はかなり浸透していた。
 応瑒は『弈勢』という囲碁論を著している。先の馬融の『囲棋賦』のように合戦に例えをおいた内容になっているが、攻めよりも守りが大事と説いた内容になっている。おおまかな内容を「中国囲碁外史」より引用よる。
「敵の誘いに乗ってすぐ戦いを仕掛けると、あの石もこの石もとなり、進退に無計画でいるとどの石も死んでしまう。力まかせに敵石を攻め、全局的に崩壊するのは秦末の武将である項羽が漢の高祖に敗れたのと同じ失策で、春秋戦国時代の最強国である楚の懐王が秦に惑わされて死んだのと同じ愚行である。時に失敗することがあろうと、崩れかかる自軍を整理し、手を戻して石の形を万全にし十分な体勢になったところで攻勢に転じ、部分的に負けても全局的に勝つのは戦国時代に燕を建国した召王の賢明と、同時代の斉の垣王の人徳に習う方法である。どんどん敵を追いかけて守りを手抜きすれば、ひどく形勢を損じる。局面が怪しければ控えて打ち、はっきりしなければじっくり考えよ。碁石を手にしたら防備を優先して、けっして攻撃を優先してはならない」
 完全に守り重視の内容である。勝負は焦ってはならない。まずじっくりと足元を固めてから仕掛けるべきという現代にも通用する囲碁論であるとは思う。参考にすべきところはあるだろうし、称賛する方もいるだろうが、反対に消極的過ぎるという意見もあるはずである。棋風によって意見が分かれそうな内容である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?