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酒イさんの本日もしんどい⑤

何のために生きてるか答えられなくてしんどい

酒イさんなのだ。
お酒とお酒が好きで、たまにnoteを書いているのだ。

noteでは心の問題やコミュニケーションについて、調べたり学んだりしたことを書いているのだ。

この記事は元イさんの記事がきっかけなのだ。

この漫画のワンシーン。
街コンで同席した男性陣に
「何のために生きてるの?」
という質問を投げかけるも、男性陣がその質問に答えられなかったという内容なのだ。

Twitter上でもさまざまな議論が広がっていたのだ。
引用リツイートの数がすごいことになっていることから、多くの人の心に引っかかったみたいなのだ。
ツイートの多くはこの質問に対して批判的だったのだ。

「初対面の相手にする質問ではない」とか、
「質問の意図が分かりづらくて答えようがない」など、
さまざまな意見が出ていたのだ。

この漫画みたいなコミュケーション不全は他にも起こり得ることかもしれない。
酒イさんも疑問を持ったのでいろいろと考えてみたのだ。

そこから得た学びを書いていこうと思うのだ。


ちなみに、酒イさんは「何のために生きてるの?」と聞かれたら、

「とくにありません」
と答えるのだ。

え?お酒のために生きてるんじゃないの?
というツッコミが入りそうなのだ。

理由は後半で説明するのだ。

初対面の人に「何のために生きてるの?」と質問しても、望んだ答えは返ってこない

論点は2つなのだ。

このコミュケーションのよくないところは、
・自分と相手の辞書が違うことを意識していない
・誰しも「何かのために生きているべき」という価値観で物事を見ている

この2つだと思うのだ。
それぞれ説明していくのだ。

人はそれぞれ自分の辞書を持っている

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・自分と相手の辞書が違うことを意識していない

辞書が違うというのは、
人によってその言葉の持つ意味合い重さが違うということなのだ。

言葉の持つ意味合い。わかりやすい例えでいうと
「最高に美味しいもの」と言った時、
ある人の頭の中には「高級なお肉」が思い浮かべられて、
別の人の頭の中には「新鮮な高級魚」が思い浮かべられているのだ。

食の好みは人それぞれだから、「最高に美味しいもの」
全員同じものではないことは理解しやすいと思うのだ。

これは他のさまざまな言葉でも起こり得るのだ。

「ヤバい」なんて状況と相手によって意味合いがまったく変わってくるので、
読み取るのが難しいことも多かったりするのだ。
解釈の幅が広い言葉は、人によって違うイメージが浮かんでいることがあるのだ。

言葉の重さについて。
ある人が言う「好き」と、別のある人が言う「好き」という言葉。

どちらも「好ましい」という方向性では合っていても、
ある人の「好き」は「嫌いではない。どちらかと言えば好き」という重さで、
別の人にとっての「好き」は「深い愛情や愛着を示すもの」という重さなことがあるのだ。

ちなみに、パートナーがなかなか「愛してる」と言ってくれないというお悩み、相手は「愛してる」をとてつもなく重い言葉だと捉えている可能性もあるのだ。

漫画の中の女性陣は、人によって言葉の意味合いや重さが違うことを意識していないと思うのだ。
彼女たちにとって「何のために生きてる?」という言葉は、
「生きがいを感じるもの」
「人生の中で重要だと思っているもの」
という意味で使われていると思うのだ。

男性側が答えられなかった理由は描写されていないけれど、
もしかしたら「あなたが生きている理由とはなにか?」という哲学的な質問として受け取っていたのかもしれないのだ。

街コンではじめましての人にそんな質問をされたら重たい・・・と感じて
答えにくかったのかもしれないのだ。

ハイコンテクストとローコンテクストという言葉があるのだ。
ハイコンテクストとは、前提となる共通認識が共有されているので、すべてを言葉にする必要がなくともお互いに理解し合えるという意味なのだ。いわいる内輪ノリが通じる関係がハイコンテクストと言ってもよいのだ。
ローコンテクストは、その逆なのだ。
前提とする共通認識や価値観がないため、言葉で説明をしていく必要があるのだ。

筆者は内輪ノリのハイコンテクストを、はじめましての人に対しても使ってしまったのだ。

でも、
人によって言葉の辞書がちがうことを意識しすぎたら会話なんてできないんじゃない?
という心配もたしかにあるのだ。

ふだんはそこまで気にする必要はないと思うのだ。
質問に対して意図した答えが返ってこなかったり、相手が質問に答えられなかったときは、こちらの質問の意図が伝わっていないと考えられるのだ。
これが辞書が違うのかもと気付けるタイミングなのだ。
その時は質問の内容を噛み砕いてみたり、質問の意図を説明することで相手に伝わりやすくなると思うのだ。

「何のために生きてる?」は必要な問いかけなのか

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根本的なお話しなのだ。
「何のために生きてる?」「生きがい」だったり「これ無しでは生きている意味がない」
人生において重要なものだと仮定すると、果たしてそれがすべての人にとって必要なのかという疑問なのだ。

自分が大切にしている「生きがい」が生活の中心の人にとって、他人へ明確に説明できる「生きがい」の無い人生に疑問を持つことはあるのかもしれないのだ。

それはその人の価値観でしかないのだ。
自分が「生きがい」を人生の中心に据えてるからといって、他人がそうである必要はどこにもないのだ。

自分の価値観を相手にも投影して「生きがいは?」の質問に答えられない男性陣を、
「おもんな こいつら」
と断じたのだ。

フジロックが生きがいの友だち

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フジロック。日本最大の野外ロックフェスなのだ。
夏に数日開催されるこのフェスが生きがいだという友だちを何人か知っているのだ。

泊りがけでフェスを楽しむためにはテントや防寒具、雨具などかなりの装備が必要らしいのだ。
仲間同士で計画を練って道具をそろえ、出演者が発表されたらどのアーティストのライブを観るかを何度も議論し合う。
とても楽しそうではあるのだ。

酒イさんはフジロックは行ったことはないけど、他の野外フェスには何度か行ったことがあるので、フェスの楽しさはよく分かってるつもりなのだ。

でも、日本最大規模のフジロックだって永久に開催される保証はないのだ。
開催地の問題だったり運営会社の問題でとつぜん中止される可能性だってあるのだ。

ずいぶん前に、もしフジロックが開催されなくなったら?と聞いたときがあって、
ある友だちは「フジロックが無い未来なんて考えられない。考えたくもない」と言い、
別の友だちは「そしたら他のフェスに集中するかな。ライジングサンとかも良いよね」と言っていたのだ。
「フジロックは生きがい」と明言する人の間でも温度差があるんだなと思った話しだったのだ。

フジロックはすぐには無くならないだろうし、ほかにも大型野外フェスはある。
でも、フジロックが生きがいの人は大きな喪失感を味わうことになるのだ。

生きる意味を外に求めることの危険性

「生きがい」「生きる意味」を趣味や仕事に見いだす人はとても多いと思うのだ。

趣味は自分が飽きることがなければ続けられるし、仕事も体力のある限りは続けることができるかもしれない。
でも、それが無くなったときにどうなるか。
生きがいを失ったときにどうなるのか。

「生きがい」が心の大半を占めているような人は、いちど考えたほうがいいと酒イさんは思うのだ。

酒イさんの場合

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冒頭の回収なのだ。

「お酒のために生きていない」し、
「お酒が生きがい」でもないのだ。

「そのために生きている」という意味で
「何のために生きてるの?」と聞かれたら、

「とくにありません」
と答えるのだ。

趣味や生活の中心に据えていたものはあるけど、そういったものへの情熱はどんどん失われているのだ。
酒イさんにとっていくつかある趣味やお酒は、人生を楽しむための大事なツールではあっても、
「それなしでは生きていけない、生きる意味」ではないのだ。

もちろんお酒とは相思相愛で、日々せっせと飲酒に励んでいる毎日なのだ。
それでも、この飲酒生活が永遠につづくとは思っていないのだ。

代わりに、
自分の心の成長や成熟について関心が増しているのだ。
まだまだ成長したとも成熟したとは全くぜんぜん言えないけど、
学びを得て成長を感じられるときがいちばん喜びを感じるのだ。

でもそれが「生きがい」かと聞かれると、
そうではないような気がするのだ。

酒イさんは明確な「生きがい」をなにかに向けて感じることが、誰にとっても正しくて素晴らしいことだとは思えないのだ。

結論
何のために生きてる?そんなものは無くてもよろしい!

「生きがい」「生きる意味」を明確に持っている人は素晴らしいと思うのだ。
それはその人が素晴らしいのであって、他の人に同じ価値観をぶつけるのは
おおいに間違っていると思うのだ。

一日一日を懸命に生きることだってとても素晴らしいことだと思うのだ。

「生きがい」「生きる意味」はあればあったで素晴らしい。人生を豊かにもしれくれる。
でもなくたっていい。無い人が可哀想な人ではけっしてない。
それだけは間違いないと思うのだ。






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