見出し画像

生活保護CW的雑感:なぜ働かなければいけないのか?

 私はとある福祉事務所で、生活保護担当部署の職員、いわゆる「ケースワーカー(CW)」として勤務している。今回はその視点から一つ。

 生活保護担当職員であるCW(ケースワーカー)の業務は、ただ生活保護の申請を受け付けたり、保護費を適切に支給したりするだけではない。家庭訪問や面談を通じた受給者に対するアプローチもまた業務の一つだ。
 では、その受給者に対するアプローチは、どのような理屈に基づいて行われているのか。

理屈① 三つの自立に向けた支援

 一つは、「ケースワーク」とも呼ばれる、福祉的視点に基づいた受給者への支援である。
 この「支援」とはどのような目的に基づくものなのか。厚生労働省が出している文書に基づいて説明すると、次のようなことになる。
 すなわち、生活保護受給者は「傷病・障害、精神疾患等による社会的入院、DV、虐待、多重債務、元ホームレス、相談に乗ってくれる人がいないため社会的なきずなが希薄であるなど多様な問題を抱えて」いる。そこで、(ア)「就労による経済的自立」のみならず、(イ)「身体や精神の健康を回復・維持し、自分で自分の健康・生活管理を行うなど日常生活において自立した生活を送ること」や、(ウ)「社会的なつながりを回復・維持し、地域社会の一員として充実した生活を送ること」が実現できるよう、支援する必要がある、というわけだ。(※1)
 この(ア)(イ)(ウ)の3つは、「三つの自立」と呼ばれ、指針とされている。

 以上が公式的な説明だが、実際自分自身が受給者に向き合うにあたっては、要するに「自立を通じてより幸福な生活が送れること」が目的なんだとかみ砕いて捉えている。
 ここから、生活保護受給者に関わるケースワーカーの姿として読者の脳裏に浮かんでくるのは、「福祉職」と聞いて一般的に連想される「優しい人たち」といったイメージだろうか。

理屈② 保護の補足性に基づく指導

 しかし、ケースワーカーが受給者に何らかのアプローチをする際の視点は、この「三つの自立」を目指した「支援」だけではない。生活保護法に次のような条文があるからだ。

第4条 保護は、生活に困窮する者が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用することを要件として行われる。(生活保護法)

 「保護の補足性」といわれる原理である。即ち、生活保護を受給する際には、利用し得るあらゆるものを活用することが要件となっており(※2)、その「利用し得る能力」には、「稼働能力」つまり、働く能力も含まれている。健康状態や年齢、職歴、それに現在の経済情勢等を踏まえ、採用される見込みがあり働くことができるのであれば、その人にとって可能な限り働くことが保護の受給要件となるのだ。
 だから、受給者への関与は、「自立を通じて幸福な生活を送れるように」というようなふわっとした「優しい」ものでは済まない。働く能力があり、環境が整っているにもかかわらず、全く働かない受給者は「指導」の対象となる。この「指導」というのは重い。生活保護法第27条に基づき文書で出される指導は、従わないと最悪の場合、生活保護が打ち切りになる。ただ実際はそこまで至ることは稀で、多くの場合は口頭で就職活動を促すことになる。
 どうだろうか。今度はケースワーカーの姿として、厳格な管理者のイメージが浮かんでくるだろうか。

理屈①と理屈②の関係

 ケースワーカーは、この①と②の両方を踏まえて、受給者に向き合わなければならない。すると、どのような事態が生じてくるだろうか。

 高齢者や重い精神疾患を持つ方など、就労が困難な場合はそう悩みは生じない。そもそも能力的に就労が難しいのだから、②を持ち出して、能力の活用を怠っている、と指導する余地はない。ただ①に専念し、よりよい暮らしを送ってもらうにはどうすればよいのか、頭をひねればよい。

 だが、例えば糖尿病の疾患はあるが全く働き口がないわけではないなど、一定の稼働能力があり、かつ本人にやる気がない場合は難しい。①の考え方のもと、本人にとって良い自立とは、生活とは…と考えていたところに、②が現れ「いや、働けるなら有無を言わさず働けよ」と言ってくるのである。①と②が矛盾し、ぶつかり出す
 もっとも、法的にはシンプルなのである。②は生活保護法適用の「要件」だからだ。稼働能力の活用がなされない場合は、生活保護が受けられなくなる可能性があると、法律上規定されている。対して①は目標、理念にすぎないから、あくまでも②>①、優先すべきは②である。
 だからといって、簡単に割り切れるだろうか。

 せめて試みるのは、なんとか①と②を両立することである。実際は②の観点から働いてもらわなければならないのだが、①の「経済的自立」を持ち出し、「働くと社会とのつながりもできますし、自立しているという自信も持てますし、生き生きと暮らしていけますよ」と促す。「働いた方が幸せですよ」と促す(※3)のはどうだろう。
 この言葉たちは100%欺瞞であるとは言い切れない。実際に働くことがよりよい生活に繋がることもあるだろう。だからその限りで、①と②は矛盾しない。
 だが、100%真実でもない。生活保護の窓口を訪れた方や、また現に受給している方から仕事の話を聞くと、いわゆるブラック企業であるという例は枚挙に暇がないし、非正規雇用も多い。そんな中で「働いた方が幸せですよ」なんて心から思い込み、受給者に向き合えるだろうか。
 働くことが難しい方々に対して、様々な課題の糸口を探り、よりよい生活を送れるようにと心砕いている中で、働ける方々に対しては、容赦のない労働の世界へと有無を言わさず送り返さなければならないというのは、支援するこちらの立場としてもそう簡単に切り替えが効くものでもないし、罪悪感のようなものを感じることもある。

なぜ人は働かなければいけないのか?

 こんなことを言っていると、おそらく社会において大多数を占めるであろう生活保護と無縁の方々には、「何甘いことを言ってるんだ!働いて自分で自分の食い扶持を稼ぐのは当たり前のことだろうが!」とお叱りを受けてしまうかもしれない。働くことが国民の義務とされているこの社会では、その怒りも当然なのだろうと思う。

第27条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。(日本国憲法)

 しかし、働くことはなぜ当たり前、なのだろうか。生活保護の現場を動かす二つの理屈について考えていると、究極的にはこの問いに行きついてしまう。
 この問いに答えること自体には、個人的には今のところ、そんなに関心は湧いてこない。ただ、現に選択されているのはそういう社会なのだ、ということにすぎない(※4)。
 しかし、そうではない社会を選択するということも、理論的にはあり得る。例えば、近年にわかに話題に上るベーシックインカムは、もはや働くことが義務ではない社会を実現するもの、として捉えることができるだろう。

(注釈)
※1 引用部は、平成17年3月31日付社援発第0331003号厚生労働省社会・援護局長通知「平成17年度における自立支援プログラムの基本方針について」による。

※2 ただし、資産や能力を活用していないから保護の申請はできない、というのは違法な誤った運用である。例えば自動車は原則的に保有することができないが、保護を申請し、受給し始めてから処分すればよい。

※3 実際にはここまで直接的な言葉がけをしているわけではありません。

※4 「資本主義が成立していること」ですら、この問いの答えにならないのはおもしろい。マルクスが批判したのは「労働からの"疎外"」であって、彼が理想とした社会主義の下でも人々は相変わらず働いている。そう考えると、ベーシックインカム下の社会の異質性がより際立つ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?