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寺山修司「寺山修司 多面体」JICC

寺山修司ほど「アウトサイダー」ということばが似合う男はいないかもしれない。彼の代表作「家出のすすめ」に出てきた寺山節は20代の俺に多大な影響を与えた。

「人に悪口をいわれぬような人とはおそらく無能な人だろう」

「わたしは『おもいだされるような奴』になるよりは『忘れられない奴』になるべきだ、と思っています』」

「行けばいったでどうにかなる」というエネルギーを思想化することこそ重要」

「人が17歳をすぎて親許で精神・お金の両方のスネをかじっているのはシラミにも劣ることであって・・(中略)家出を逃避ではなく出発だと思い込めるような力さえつけば、もう詠嘆することはないでしょう」

40年前、寺山は47歳という若さで病に倒れた。本著は生前のインタビューを
「寺山修司の戸籍上の弟(死後、養子になった)」森崎偏陸(通称へんりっく)さんが編集したものだ。

本著の中でも彼の出発点がこの「家出すすめ」にあったことを明言していた。この宣言は1950年代に「精神的な乳離れが遅れている社会」に対する不満から解き放たれた主張だったらしい。

彼が詩人として活躍した当時「石川啄木の再来」といった評価があったらしいが、著者も言っているように寺山はその枠にまったく当てはまらない。ただ、「弱くははかないもの、虐げられたものに対する観察眼」「東北出身」という点で共通するものはあると感じるが・・。

「劇場の外へ飛び出そうとする演劇、画布の外へ飛び出そうとする絵画、楽器を捨てて、地下鉄の騒音で作曲しようとする音楽、それらはジャンルの終焉でも様式の喪失でもなく、解放と拡張の論理なのである」

「書を捨てよ、町にでよう」

「職業は寺山修司」

彼は「読む」行為も「本に閉じ込められるな!」と警笛を鳴らした。課題図書などくそくらえといったところか?寺山は街の広告から世界中のホテルの<Don`t disturb>の収集にいたるまで、あらゆる「読む」を実践した。

天井桟敷という劇団も破天荒な公演を繰り広げ、観客を箱にいれて連れ出すなど、警察沙汰にもなったそうな(汗!)・・。

それにしても・・知らなかったのだが、少年時代に自分を捨てた母親はつは「毒親」として最後の最後まで寺山修司を悩ませ、九条今日子との結婚後、彼の愛の巣に火を放った。それにもかかわらず警察沙汰にすることなく、過ごし続けたというから驚きだ。しかもこのはつさんは寺山の死後「母の蛍 寺山修司のいる風景」という本を書いて寺山への愛を綴っている・・。歪な愛情というか・・ふと岡本かの子を思い出してしまった・・。

ま、寺山に関しては語りつくせないし、また語りつくすこともできないと思う。ただ、死後40年経ってもその魂が継承されていることが確認できた。事実、本著の編者である「へんりっく」さんは寺山修司の弟として今も活動を続けているそうだ。

また新しいアンテナが立った。楽しみ!



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