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月光荘という奇跡

「人生で必要なことは月光荘おじさんから学んだ」

という本が2017年に産業編集センターから出ていたが、俺は月光荘の存在も知らずに今になって橋本兵蔵という富山県出身の月光荘(画材店)の店主を知った。大正6年に店を開いて、100周年を記念して出た本らしい。巻頭のことばを抜粋してみる。

 この月光荘は国費を投じた研究所に先駆けて1940年に自宅炉にてコバルト・ブルーの製法を発見し、純国産の顔料から作る第1号の油絵の具を開発、1971年には新色コバルト・バイオレット・ピンクを発見し、「フランス以外の国で生まれた奇跡」という見出しで、仏ルモンド紙に賞賛の記事が載ったこともある。
 燦然と輝く歴史がありながら、創業者は生前、店名の名付け親であり、大恩人である与謝野晶子との約束をかたくなに守って、個人に光が当たることを良しとせず、芸術家を支える月の光としてただただ一途に絵具屋の主人としての人生を全うしました。

表題写真の「月光荘」を書いたのは、この画材店名の名付け親である与謝野晶子、そして「友を呼ぶホルン」のロゴは与謝野夫妻を中心とした文化人グループ(芥川龍之介、島崎藤村、有島武郎、小山内薫など)が考案したもの。当時のお店の建築設計には藤田嗣治が関わったというから只者ではない。

富山の農家の長男として生まれた橋本兵蔵は父親が蔵に沢山の本を置いてくれたお陰で、読書家になり、広い世界に対する憧れを強くする。その思いを抑えきれず、18歳の兵蔵は一人家を飛び出して東京へ向かった。

当初は郵便配達など肉体労働でコツコツと生活を始めながら東京でしか味わえない文化に魅了されていく。数年後、書生として住み込みで働き始めたわけだが、なんと!その家の向かいが歌人・与謝野晶子の自宅だった。与謝野作品を愛読していた兵蔵は、勇気を出して与謝野の家のドアを叩く・・。

そこから彼の人生は、当時の最先端をいく文化人に囲まれた人生を歩むことになる。もちろん、作家としてではなく、ひたすら文化人の話を聞き、みんなに愛されながら、自分ならではの道を切り開いていく。それが「画材店」だった。開店当初はひたすら絵具先進国フランスからの輸入品を扱う店で、店員もフランス人だったらしいが、第二次大戦中、国から輸入禁止と代用品の販売を強要されるも、それに従わず、ひたすら独自の方法でコバルトブルーの開発に取り組んだらしい。

戦中、彼の絵の具が戦争絵画に使われたことから、GHQから呼び出されたことがあり、その時、処罰を覚悟して行ったところ、マッカーサーから「戦中に絵具開発し続けた男は世界でお前だけだ」と称賛され、日本からアメリカが持ち帰った戦争絵画の修復用の絵具の発注を受けたというから面白い。

いわさきちひろを始め、この月光荘に通い、影響を受けた画家、作家、セレブは数知れず、日本国内よりむしろ海外での認知度が高いそうだ。

兵蔵のことばでたくさんの人が救われ、癒され、明日への活力をえてきた。
彼のことばを少し紹介しておきたい。

「いい物がわからんのは、見ていないから。
 不便が習慣になると無関心になる。
 実用は美なり。美は静かで人目を引かない。
 『慣れの怖さ』
 進歩の源は想像です。諺に『物を買う、己を買う』
 己の知っている範囲から出んと未来が開かれん。
 ゲーテは『私が求めているのは美であって美しい物ではない。そして美
 とはそれがわかる人そのもである』と。
 用をたしてこそ美である。人間味のある美は光る。

「平和な時、波風のない時、人の本心はわかりません。非常時になって始めてわかる。人の親切も真心も。人間に国境はありません。人の足元を見るような商売だけはしたくないのです。」

(晩年の手紙)
「耳がとおくなってくると、相手の目の色に気が付くように
 なってきました。目がかすんでも、手の握り具合と温かさで
 心にしみる度合いが違ってきます。
 男と女であったら、ローソクか稲妻かわかりますよね。」


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