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059現場の実践的な改良でコメの収量を拡大

この千歯こきの話から、伊勢講、お伊勢詣りが古くから庶民の楽しみとして行われただけでなく、農機具や農業技術を各地に伝える重要な情報交換の機会にもなっていたことが分かります。このことは、例えば種苗の伝播やイネかけのスタイルなどの栽培ノウハウ、クワなどの道具の形が伊勢参りの街道に沿って広がっていったことからもよくわかります。
これは、逆にいえば、農民たちが、ふだんからいかに優れた栽培法や効率的な作業方法、道具を求めていたかを物語るものです。そして千歯こきも、各地でまた改良が加えられて伝播していきました。
また、『農具便利論』には、改良され使われている道具の例として、さまざまな鍬の図が紹介されています。そしてそれらは、ただ手にした道具をそのまま使うだけでなく、自分たちの土壌、地形、栽培種に合わせて工夫・改良が加えられており、柔らかい土壌用、固い土壌用、湿地用、畑用、田んぼ用、粗おこし用、畝おこし用……など、8ページにわたって、24地方、27種類のクワが紹介されています。そのバリエーションはじつにさまざまで、農民が各地の土壌や作物に合わせて効率をよくしようと、いかに改善を重ねてきたかを物語っています(図6-4)
 
図6-4 さまざまに改良されたクワ
 


(「農具便利論」農文協「日本農書全集上中下三巻」)


 
そんな状態でも、同書には、たびたび、「農夫は古い習慣に固執してなかなか新しい道具を使いたがらない。もっと柔軟な発想で積極的に新しい道具を使用するべきだ・・・」といった意見も紹介されています。
積極的に工夫を加えて新しい道具を導入しようとする人たちがいる一方で、従来のやり方を変えようとしない人たちもいることが分かりますが、このあたり、いつの時代にも変わらないようです。
明治維新以降、新しい動力源の開発で農機具は大きく変化しました。しかし、コメ作りの基本的な知識やノウハウ、コメの栽培に関する基本的な技術は江戸時代に完成され、以降ほとんど大きな変化はないと言われています。
私たちにとって、江戸時代の農業と言えば、どうしても人手作業に頼り、抑圧された農民たちによる発展性のない閉鎖的な職業というイメージがあります。映画や小説などで描かれる江戸時代の農民は、そういう人たちとして描かれていますが、実際は必ずしもそうではなかったようです。
・全国を股にかけて教えて歩く指導者がいて、
・お伊勢詣りなどを通じて全国規模の情報交流が行われ、
・改良種の種子もかなりオープンに伝播していた
ようですし、
・農業書も流通し、実践的な栽培技術の改良が進められていた
ようです。
そうしたうえで、米作の技術は江戸時代でほぼ完成されていたと聞くと、江戸時代の農民や、当時暮らしていた人々のイメージが大きく変わってみえるではありませんか。
いかにも日本的なのは、その仕組みです。当時は当然、JAもありませんから、農夫たちは庄屋を核として、現場で田畑の栽培と管理を行い、米作の実践的な生産性向上の改善努力を続けていました。
その一方で、幕府や藩は、米作に代表される農業生産によって経済が成り立っているにもかかわらず、年貢の増大を要求するだけで、生産性を高めるための研究開発面での支援をあまり行ってきませんでした。
つまり、米作を中心とした農業は、幕府や藩による科学的な栽培技術の研究・開発・支援が行われたわけではなく、もっぱら現場の第一線農民によっての道具や栽培技術の実践的な実験と研究・改良の試みで生産量を増やしてきた・・・とまとめてみると、「日本の米作を中心とした農業」を「日本の半導体産業」と言い換えられそうな気もします。見事にシンクロしていますね。この体質は今に始まったことではなく、じつに長い歴史があることがわかります。

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