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奈良の藤原京跡とする根拠が謎?(阿波邪馬台国説)



藤原京は土地選定の段階で失敗していた?

わたしたちは歴史の授業で、飛鳥時代→(白鳳時代→)奈良時代と、主に奈良で都がつくられていたと習いました。一時期は難波宮などにあったことを除いて、ほとんどが奈良盆地にあったということでした。

飛鳥時代は、天皇の交代ごとに宮を造り替えており、狭い範囲で転々と宮殿を移していきました。
その後、藤原京に遷都し、わずか16年で平城京に遷都しています。
藤原京は平城京とほぼ同じで少し広い面積であり、建物は移築したものもあるそうです。
藤原京が短命であった大きな理由は、土地選定の失敗、すなわち生活汚水が南側より北側の宮殿方向へ流れ、異臭あり生活環境として不適だったと考えられています。
なぜ、3km程度離れた土地に引っ越すだけなのに、その問題に気づかなかったのでしょうか?
不思議ですね。
(参考文献によると、飛鳥に都があった根拠も弱いようです。)

藤原京跡と飛鳥は3㎞程度離れている


本当に藤原京だったのか? 藤原京跡とする根拠は大きく3つ

平城京跡と比較して、当地が藤原京の跡地だったという確かな伝承は残っていなかったらしい。扶桑略記(1094年)などの私記で高市郡にあったという説があったのみ。

六国史 巻2 日本書紀. 巻上,下 増補  佐伯有義 編 朝日新聞社, 昭15


調べてみても、江戸時代から今まで、確かな根拠は出ていないようです。奈良の中で探すと、しいて言えば当地になるということでしょうか。

藤原宮 ー半世紀にわたる調査と研究ー より


根拠①万葉集の「藤原宮御井の歌」の情景に似ている

定説の大和三山の間の地で宮殿の遺構が見つかったことを根拠としている。
ただし、清水の湧き出すような井戸などは特定されていない。

根拠②出土瓦が白鳳期の瓦

ただし、白鳳期の瓦は、阿波を含めて各地の寺院跡で見つかっている。
藤原京の官衙地区(官庁街)、内裏ではほとんど瓦が出土していないようです。

根拠③出土した年紀銘木簡が日本書紀の藤原宮遷都後にあたる

しかし、16年間使われたはずであるのに、発掘からわかる生活の痕跡が少ないそうです。
年紀銘木簡の出土「己亥年十月上捄国阿波評松里」(699年) 上捄国は安房のこととされているがこの読み解釈は正しいのか?


己亥年(六九九年)十月上サ国阿波評松里
複製: <どう見ても1文字>国阿波

日本書紀の記述を読み直すと、奈良の藤原京跡とは新益京(新城)跡ではなかったのかと思えてくる!

平城京遷都前の、「藤原宮」と「新益京」は同じものだと思っていませんか?
実は、日本書紀に「新益京」に遷都されたという記述は全く無いのです。
藤原宮と新益宮(奈良)を区別して記載されており、地鎮祭も別々に行われています。

日本書紀から抜粋すると、

676年 天武天皇5年
十一月乙丑朔 天武天皇  ・是年、將都新城。而限内田園者、不問公私、皆不耕悉荒。然遂不都矣。
(この年、新城にいきに都を造ろうと思われた。予定地の田畑は公私を問わず耕作されなかったので、たいへん荒廃した。しかしついに都は造られなかった。

682年 天武天皇11年
三月甲午朔、命小紫三野王及宮?官大夫等遣于新城令見其地形、仍將都矣。・・・庚子、地震。・・・己酉、幸于新城
(三月一日、小紫三野王みののおおきみと宮内官大夫まえつきみらに命じて新城にいきに遣わし、その地形を見させられた。都を造ろうとするためであった。・・・七日、地震があった。・・・十六日、新城にいきにお出ましになった。)(再開された?)

683年 天武十二年・・・十二月・・・十七日、詔みことのりして・・・
また詔して、
都城みやこや宮室おおみやは一ヶ所だけということなく、必ず二、三ヶ所あるべきである。それゆえ、まず難波なにわに都を造ろうと思う。百寮もものつかさの者はそれぞれ難波に行き、家地いえどころを賜わるように願え」
と言われた。

684年 天武十三年・・・二月・・・二十八日、浄広肆広瀬王じょうこうしひろせのおおきみ、小錦中の大伴連安麻呂おおとものむらじやすまろおよび判官、録事、陰陽師、工匠らを畿内に遣わして、都を造るのに適当な所を視察し占わせた。
三月・・・九日、天皇は京内を巡行されて、宮室に適当な場所を定められた。
・・・
冬十月・・・十四日、入定いのとき(夜10時頃)に大地震があった。
国中の男も女も叫び合い逃げまどった。(★阿波のことか、伊予・土佐と近い被害があったはずだが。)
山は崩れ河は溢れた。
諸国の郡の官舍や百姓おおみたからの家屋、倉庫、社寺の破壊されたものは数知れず、人畜の被害は多大であった。
伊予の道後温泉も、埋もれて湯が出なくなった。
土佐国では田畑五十余万頃ころ(約一千町歩)が埋まって海となった。

690年 持統天皇4年 ・壬申。高市皇子觀藤原宮地。(阿波?)
691年 持統天皇5年 ・甲子。遣使者鎭祭新益京。(奈良?)
692年 持統天皇6年 ・戊寅。天皇觀新益京路。(奈良?)
692年 持統天皇6年 ・丁亥。遣淨廣肆難波王等鎭祭藤原宮地。(阿波?)
692年 持統天皇6年 ・天皇觀藤原宮地。(阿波?)
693年 持統天皇7年 ・八月戊午朔。幸藤原宮地。(阿波?)
694年 持統天皇8年 ・春正月乙巳。幸藤原宮。即日還宮。(阿波?)
694年 持統天皇8年 ・十二月庚戌朔乙卯。遷居藤原宮。(阿波?)

704年 (続日本紀)「始めて藤原宮の地を定む」 (意味不明。奈良の新益京のことか?)
710年 (続日本紀)和銅3年 ・元明天皇が平城京に遷都。(奈良)
711年 (扶桑略記)和銅4年 ・『扶桑略記』に、大官等寺並びに藤原京が和銅4年(711年)に焼亡したという記事がある。(藤原京跡に火災の痕跡は見つかっていない。)
 

さらに、平城京遷都のとき、平城京の大極殿は未完成だった!

出土木簡から、元明天皇が平城京に遷都したときには大極殿は完成しておらず、落成は715年(和銅8年)。遷都から5年後とわかっています。その間、藤原京を使い続けたのか、平城京の仮殿を使ったのでしょうか?

【結論】阿波説による仮説

・天智天皇と藤原不比等は、大地震被害等様々な理由で、新城(新益宮)を奈良に移すことを計画し、造成を開始し完成した。正式に遷都されていないこの地への人の移動は少なかった。
・持統天皇は、阿波に残ることを選択し、阿波で藤原宮(阿波鴨島)を造成し遷宮した。そこは、吉野宮(加茂野宮城跡)に行幸するにも近い。
・707年、元明天皇のとき、奈良遷都に関する会議が開かれて、
平城京を短期2年で造成し、完成済みの奈良新益京の建物を移築することを決めて、710年奈良へ移った。
このとき最初は新益京を使って徐々に平城京に完全に引っ越した。新益京と平城京は20㎞程度しか離れていない。

阿波藤原宮(阿波鴨島町)の比定地とはどんなところか

阿波説では、万葉集の「藤原宮の御井の歌」にうたわれる場所は徳島県の旧麻植郡鴨島町と考えられています。
この地には、
藤氏神社(藤原氏ゆかり)
藤井寺(四国八十八ヶ所霊場 第11番札所、清水の湧き出す小川があります。)
西宮古墳(7世紀初頭頃の忌部山型古墳。この周辺で東京国立博物館所蔵の蕨手刀が見つかっています。)
河辺寺跡(白鳳期の藤原宮式6646形式の瓦が出土)
西麻植八幡神社(阿波忌部・藍商人ゆかり)
敷島神社(旧式内社を合祀)
飯尾天神社(菅原道真を合祀)
国一八幡宮(昔は慶雲の宮と呼ばれていた)
などがあります。
天皇を支えたと考えられる、阿波忌部の本拠地とされる旧麻植郡にあります。


参考文献

■藤原宮―半世紀にわたる調査と研究 (1984年) (飛鳥資料館図録〈第13冊〉)
・藤原宮地比定の根拠は、
①万葉集「巻1-52 藤原宮の御井の歌」の情景
②出土瓦が白鳳期
③年紀銘木簡の出土 2つ、他 「己亥年十月上捄国阿波評松里」(699年)



■飛鳥の木簡―古代史の新たな解明 (中公新書) 新書 市川大樹著

■平城京一三〇〇年「全検証」―奈良の都を木簡からよみ解く
・平城京大極殿の落成は715年(和銅8年)。遷都から5年後。

■「藤原京」100のなぞ (2012年)
 橿原市 (著), 橿原市教育委員会 (著), 奈良県立橿原考古学研究所 (著)
・「藤原京」と名付けたの大正から昭和の初め
・「藤原」は万葉集「巻1-50、52」にみられる「藤原」「藤井ヶ原」が元だが、奈良にそれにあたる地名は無い。
・建築木材は滋賀県大津市田上山から水路と陸路で運んだ。万葉集「巻1-50」
・「扶桑略記」の記述と異なり、官衙地区(官庁街)、内裏ではほとんど瓦が出土せず、礎石建築も確認されていない。地区内の寺院では文献のように出土あり。
・柿本人麻呂の生涯が不明。
・藤原京は16年。そのなかで都市民が根付いた形跡が無い。
・疫病は各クニで流行した記録があるが、大倭・淡路・讃岐・伊予で発生した記録はあるが、なぜか阿波で発生した記録が無い。
・薬師寺論争。本薬師寺はあったのか? 薬師寺の国宝銅像薬師三尊像は藤原京から移されたのか?
・藤原京の時代にはすでに全国的な戸籍がつくられていた。しかし、藤原京の時代の戸籍はまったく残っていない。(木簡は出土しているのに)
・「続日本紀」の慶雲三年(706)三月「京城の内外に多く異臭あり」。疫病も広がったよう。
・河川は排水に利用しており、飲料水は井戸から利用。(汚染されてなかったのか?)
・万葉集「巻1-52 藤原宮の御井の歌」の井戸が見つかっていない。(清水の湧き出すようなところは無い?)


■木簡から古代がみえる
・論語木簡(徳島県観音寺遺跡) 方柱の四面に文字あり。論語の文章の残る最古級の木簡。
7世紀の第2四半期にさかのぼる可能性がある。

・飛鳥池遺跡から、東漢直が犯した罪を断罪したうえで罪を許すという木簡が出土している。飛鳥から「新城(藤原京)」への遷都に協力してもらうためではないか。
・元明天皇は、709年12月5日に平城京へ行幸し、そのまま710年正月1日に朝賀の儀、3月10日「始めて都を平城に遷す」と記される。
なぜわずか2年の短期間で平城京への遷都が実現したのか?大極殿が未完成のまま、遷都を宣言したことが分かった。とすると藤原京で朝賀の儀を行ったことになる。

■木簡 古代からの便り
・天武天皇の時代(7世紀後半)以降の出土木簡は飛躍的に増えるのに比べ、それ以前はわずか100点程度。(不思議)
・「郡評論争」に決着をつけた、「己亥年十月上捄国阿波評松里」木簡

■吉野・芳野行幸の歴史
吉野と芳野? 持統天皇は31回も吉野行幸している。日帰り?のときもあったようだ。

飛鳥、奈良、平安時代の吉野行幸の歴史


■古代の都城 : 「宮域」に官僚約八〇〇〇人
斉明二(六五六)年飛鳥岡本に宮殿建造とあり、飛鳥京があったとする学者もおられますが、宮域の規模よりして、前期難波宮の官僚はどこに行ったのか、全く説明がつきません。
飛鳥に都があった根拠が弱いという説明があります。

■四国考古学最前線 2023年

■藤原宮
宮の場所については『扶桑略記』(1094年)に「大和国高市郡鷺栖坂地」、『釈日本紀』(1264年?)所引『氏族略記』に「高市郡鷺拪坂北地」とある。しかし、賀茂真淵は『万葉考』で「香山・耳成・畝火の三山の真中也、今も大宮と云て、いさゝかの所を畑にすき残して松立てある是也」と述べ、現在の橿原市高殿町大宮土壇を宮の場所と考えた。

■奈良県高市郡志料 高市郡役所 編 名著出版, 1971
『扶桑略記』(1094年)に「大和国高市郡鷺栖坂地」とあるが、坂らしき地形はない。
『続日本紀』「始めて藤原宮の地を定む」 というが意味不明。

奈良県高市郡志料 高市郡役所 編 名著出版, 1971


■道は阿波より始まる その2、 狐の帰る國
万葉集「巻1-52 藤原宮の御井の歌」は、阿波の旧麻植郡鴨島町と比定している。
・荒栲の 藤井が原に ・・・阿波忌部のつくる麁服(あらたえ)、旧麻植郡藤井寺近くには、藤の自生林、山麓から流れる小川がある。
・倭三山は、日峰山、津乃峰山、中津峯山のこと。

■古代史塾 藤井榮著
阿波説の根拠について、写真など豊富に掲載されている。
岩利大閑氏、笹田氏の系統の研究成果をまとめたものです。

■(95)シンポジウム「難波宮と藤原宮」 発表(2)「藤原宮 藤原京(新益京)の造営 ―天武が目指した王宮・王都の造営過程」(考古学)第440回 帝塚山大学考古学研究所

以上

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