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関係の科学~ベイトソン「精神と自然」(岩波文庫)感想~

 私達の学びというものは、個別で具体的な例の中に、全宇宙的な関係を見出だす営みである。

 物に名前をつけ、パーツに分解して分析し、知識を蓄積していく。確かに、それも学びの一つの営みではあるが、そうした個別で、それ自体に完結した世界の中に私達は閉じ込められてしまう危険性を孕んでいる。最早、それは暴力的なまでに私達の生を規定し、縛り付けてさえいる。この過去数百年にわたる近代科学の知的権威に対して、ベイトソンは一矢報いたかったのだ。

 一方でベイトソンは、机上の空論を並べたてることに終始した訳ではない。遺伝学者の権威であった父の家庭で過ごし、大学では生物学を専攻した。その後、人類学、臨床心理、イルカのコミュニケーション研究など強靭な知的運動神経を発揮した。彼の論においても、その学識の深さを伺える。

 ただ、一見すると散発的にも思える彼の研究は、「関係」を追求しようとする姿勢が底に流れている。彼は人類だけでなく、生態環境にまで射程を広げ、それらの「関係」の中に私達もあることを問い直したかったのではないか。

 彼の関係の科学は、文明論にも応用できる普遍性を持つ。文明化は、ある種の個別化、専門化によってその深みを増して今日まで存続してきた。その過程の中で無駄は排除され、限られた時間という世界の中に人類は閉じられていった。特定の人間集団は、管理された勤務時間で労働し、共同体と歴史を共有して、ある規定された倫理観の中で生きていく。

 こうした文明化の功罪は、私達の多くをあらゆる「関係」から切断してしまったのではないだろうか。所有、区別、固定化などはあらゆる次元で加速度的に増大している一方で、個人や個性が本人の自由意志によって切り離されている。そうした世界の中では、犬やイルカといった動物を含めて、精神異常を来してしまう場合もあるのだ。

 確かに現在のこの世界から全く抜け出てしまえる程に人間は強い生き物ではないだろう。けれども、そういった世界の枠組みが持つ恒常性を認めながら、その「間」を自由に行き来していくことも可能ではないか。既に私達は科学だけでなく、詩や芸術によってもそうした「関係」を乗り越える知恵を持っているのだから。

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