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日本人慰安婦:「秋子的故事」について

日本人慰安婦:「秋子的故事」について
~皇軍兵士宮毅一郎の「日記」から検証したいこと~
 

はじめに
本稿は、筆者がこの間訪問した南京利済巷慰安婦旧址陳列館に紹介されている「秋子的故事」に関心をもち、日本におけるこの事件に関する認知を調べてみたところ、全くと言いほど知られていないことを知りました。今日の時代環境~戦争とは何かを語りえる世代が圧倒的少数派へ~からその史的事実を検証したいと思い、まとめてみました。
まず「秋子的故事」に関する「史実」の現段階において判明したことを明らかにし、この皇軍兵士宮毅一郎の「日記」を裏付ける検証のために、今日の近現代史研究者のみならず、中国近現代史に関心をもつ市井のみなさんの協力をえながら、今後のこの事件に関わる検証の必要性について考えてみたい。
 
1.「秋子的故事」との出会い
1)最初の出会い
昨年2016年8月に南京利済巷慰安婦旧址陳列館を訪問した際に展示されていた歌劇:「秋子的故事」でこの事件を初めて知った。同伴してくれた南京師範大学院生から口頭で簡単な説明を受け、南京では有名な話として周知の事件だと紹介された。
利済巷陳列館では、この歌劇:「秋子的故事」とその心中場面の写真はあったものの、この歌劇に関する解説文を読んだ記憶がない。
日本では、この揚州で起こった「秋子的故事」に関わる歴史と伝聞は耳にしたこともなく、日本語によるネット検索で、「秋子的故事」と「南京」で検索したところ、私が記したブログ記事が最初に現れたことから見ても、殆ど知られていない秘話であると思われた。
その後「秋子的故事」に関する正確な記述と出会ったのは、昨年12月に歴史教育者協議会(歴教協)日中交流委員会主催の南京ツアーで再び南京大虐殺記念館を訪問し、そこで頂いた「性奴隶梦魔/南京利済巷慰安婦旧址陳列図集」である。ここでははじめて、歌劇:「秋子的故事」に関する解説文章に触れて、この事件と概括を知ることができた。
また帰国後にこの歌劇が1938年4月~5月に起きた事件記事をもとに1941年1月歌劇「秋子」としてシナリオが完成し、重慶にて42年1月31日に初演され、その後成都、昆明、遵義、南充等で52回ほど公演されたことを知った。
2)「秋子的故事」の概要
「利済巷慰安婦旧址陳列図集」に記載されていた解説テキスト(原文は中国語、筆者が翻訳)は以下の通りである。
「新婚三ヶ月の日本青年「宮毅」は日本政府の招集により中国に従軍した。その後間もなく彼の妻秋子と地元の婦女らは日本政府が組織した「尋夫団」に参加した。この「尋夫団」は日本を離れるや強制的に従軍慰安婦に改組された。ある日揚州駐留の青年兵士は、慰安所にて一人の慰安婦を提供された。その慰安婦は何とあろうか妻秋子であった。慰安所で再会した二人はこの出会いを悲しみ、嘆き、苦しみ、この残忍極まりない戦争を忌み嫌い、揚州慰安所(緑楊旅社)で二人は連れ立って自殺した。」
3)その後の検索情報
まず事件現場と言われている揚州「緑楊旅社」を調べた処、日本軍による揚州占領中に二件の重大事件があったことが紹介され、その一件がこの「秋子的故事」に関することであることがわかった。
記事は以下の通りである。
「一組の日本軍内縁夫妻が厭戦と屈辱に耐えきれず、緑楊旅社で連れ添い自殺があった。七十八歳になる揚州の高齢者が、当時住んでいた新勝街の東側の親戚から聴いたことを筆者に語ったことして、以下のように紹介した。
ある日、日本軍青年兵士が慰安所で慰安婦を紹介され、夕方慰安所で慰安婦と面会したところ、お互いに驚愕した。その慰安婦は、その兵士の内縁の妻であり、この兵士は徴兵されて、中国への侵略部隊に充当され、未婚の彼女もこれに伴い、慰安婦として中国に派遣されて、思いも寄らずにここ緑楊旅社で再会し、彼我ともに悲しみ、後悔を増して、慟哭するばかりとなり、お互いに自分の不幸な境遇を訴えた。このような悲惨な非人道的な侵略戦争を恨み、ついに二人で連れ添って自殺した。
翌日、従業員は二人が部屋からなかなかでてこないことから、椅子に乗って窓ガラスから中を覗くと、二人はベッドに横たわり一つも動くことがないので、すぐに扉を明けたが、すでに息の途絶えていることがわかった。日本軍指令部は兵士の心情への影響を恐れて、こっそりと事件を処理した。」
この記述は利斉巷慰安婦陳列館の記述と以下の点で異なる。
①夫妻を「未婚夫妻」として、「新婚三ヶ月の夫妻」と異なる。
②妻は、夫を追って中国に派遣されたとし、その経緯の詳細はない。
の二点とともに内密に処理したはずの事件がどのように知れ渡ったのかという疑問も残った。
この段階では、以下の検証が不可欠と判断した。
①「新婚三ヶ月の夫妻」という夫妻の来歴について
②「尋夫団」という日本政府が組織した慰問組織について
2.「秋子的故事」に関する一次史料について
以上のように「秋子的故事」に関する情報は、そのソースによって大きな違いがあり、実際の真相は定かでなく、史実として正確な判断と評価が下せる史料を特定し、その記録に基づく調査と検証が不可欠と判断し、一次史料に関する調査を始めた。
一次史料へのアプローチとして「秋子的故事」に関する事件発生現場の揚州における新聞報道を発見した。
そこで以下時系列順に「秋子的故事」に関する記事内容を紹介したい。
1)「扬州日报」2015.12.16記事について
記事は以下の通りである。
「これまでの文献では、宮毅一郎と秋子の自殺事件は、「大公報」が最初の報道源であり、自殺場所は揚州緑揚旅社とされてきた。昨日、揚州の学者で市警察学会秘書長朱德林が最新の研究成果として、厳格な学術態度と考証により、これまでの叙述は誤りであると発表した。
 
事件の真実:慰安所で妻と遇い、日本軍夫妻連れ添い自殺
 
1938年、抗日戦争が勃発してまもなく、新婚三ヶ月の日本青年宮毅は、日本政府の徴兵により中国に派遣された。それから暫くして、彼の妻秋子は、日本政府に騙されて揚州に至り、従軍慰安婦となった。
宮毅が揚州に駐留中、ある慰安所にて、一人の慰安婦に遇った瞬間に驚愕した。なんとその慰安婦は、他ならぬ彼の妻秋子であった。彼らは、万が一にも揚州の慰安所で再会するなどとは思いもしなかった。彼と彼女は、悲喜交錯し、後悔の念を深め、頭を抱えて慟哭し、各々が自分の不幸な境遇を訴えた。
宮毅の妻によれば、自分はもともと皇軍慰問として派遣されたのであり、妹は出征に反対して牢に繋がれ、母親はショックのあまりこの世を去ったと言う。
このような悲惨で非人道的侵略戦争に反対して、ついに彼らは、旅館に連れ添って自殺したのである。事件発生後、日本軍指令部は、兵士への心理的影響を恐れて、この事件をこっそりと処理した。」
 
2)「扬州日报」2016.4.7記事について
記事は以下の通りである。
「抗戦文芸」創刊号:秋子事件の自殺地点は大陸旅館であり緑揚旅館ではない。
最近、揚州の文化人で市警察学会秘書長朱德林が、研究発表を行い、昨年再演された反戦歌劇「秋子」に関する報道の初出は、「大公報」ではなく、「抗戦文芸」であり、これが現在「秋子事件」に関する初出の掲載記事であり、且つ秋子の自殺場所は、「大陸旅館」であって「绿杨旅館」ではないと発表した。
「秋子」に関する情報源は、ネットや関連文献の多くは1938年4月の「大公報」と称せられてきた。朱德林は、直ちに1938年の「大公報」縮刷版を一頁毎に調べた結果、「大公報」には何ら「宮毅と秋子」に関する報道を探すことができなかった。
第一次資料を調査して、朱德林は意外にも「鲍雨」と署名された記事を発見した。それは、第1巻第9期「抗戦文芸」(1938年6月18日出版)の速報「揚州の日本兵自殺せり」であった。この文章のなかで、秋子事件の全貌がきっくりと紹介されている。鲍雨の書いた秋子事件の主要現場は、揚州新勝街の「大陸旅社」であって「緑楊旅社」ではない(斜向かいにある旅館)。また「秋子」の首つり現場は、「大陸旅社」であるが、「宮毅」の自殺場所は左衛街の小旅館である。
朱德林曰く、「揚州の日本兵自殺せり」が発表された後に、宮毅と秋子の物語は、迅速に国内多くの新聞に転載記載されて、自殺場所が「緑楊旅館」となった。
雑誌「解放」第67期(1939年3月20日出版)には中共中央青年工作委員会副書記冯文彬が1938年11月19日より21日まで西北青年救国联合会第二次代表大会の報告集「中国青年運動の新方向」を掲載している。文中で冯文彬はこの故事を引用し、改めて「……宮毅は楊州新小街の大陸旅館で自殺し……同时に秋子も首つり自殺した」を書いている。
彼は更に「宮毅と秋子は、沢山の日本人青年と同様に、また積極的に中国青年と積極的に連合して日本帝国主義に反抗する道に進むことができず、哀れな犠牲となってしまった。これこそ正に我々に責任が存在する。
この情報を対比すれば、「抗戦文芸」は国内における「秋子事件」に関する最も早い報道である」と朱德林は言う。」
 
以降、鲍雨による宮毅一郎の日記をベースにした記事として以下の抜粋が以下のように掲載されている。
 
「揚州の日本兵自殺せり(抜粋)
最近、揚州日本兵に一種の「狂気病」が流行している。——自殺狂である。殆ど毎日、自殺する兵士が発見され、自殺の方法は極めて残酷であり、首筋部と腹部以外に生殖器を切って自殺する。
最近、名を宮毅一郎という兵士は、まだ26歳足らずであるが、彼は、短刀を用いて顔面を切り裂き、その後に咽喉を切り裂いて自刃した。揚州市内左衛街の小さな旅館で死んだが、短刀がしっかりと刺されたままであったと言う。
更に注意してほしいのは、彼が自殺した翌日の夜、新勝街大陸旅館(日本人慰安所)にて名を秋子という日本女性が首つり自殺した。彼女は美貌の若い女性であった。
一般の人は、宮毅秋子の死は、注目に値しない「情死」と思われるかも知れない。しかし問題は、そんなには簡単ではない。彼と彼女は、一体どのような関係だったか?なぜ自殺に及んだのか?一端詮索を離れて、旅館のベッドに残された彼の日記を見れば、一切の疑問が解決する。
彼は長崎の生まれであり、祖国を離れて異邦にきて、5ヶ月ほどであった。彼は7回目の出征であった。その時彼は秋子と結婚して四ヶ月も立っていなかった。彼には年老いた母と妹がいた。普段彼は小さな紙煙草の店で生計を立て、貧困ながらも暮らすことができた。そのようなところから、この広大な中国にきて、彼は家族のことを思わない日はなかった。北の戦場から東の戦場へ、大小数十回の戦闘、何度も名誉の負傷を負った。
この三ヶ月に妻から三通の手紙を貰い、一通を受けとる毎に煩悩が増すばかりであった。手紙には、国内の生活がいかに困難で、食べたり用いたりする毎に物価が段々上がり、税金と寄付金も段々増えていく、しかし自分のお店の営業は、日増しにさっぱりであると伝えてきた。
最近二ヶ月、彼の妻からの手紙を受けておらず、彼は彼女を疑い始め、消極的になり、自殺を考えはじめていた。一週間前に、大陸旅館に何人かの新しい女性が来たと言われ、ある同僚から大陸旅館で見た女性が彼の妻の写真の顔と同じだったと告げられた。
彼はその時彼の妻がこのような遠い異国に来られるとは信じることができなかった。今晩、大陸旅館で会い、やっと確かめることができた。彼女はもともと皇軍の慰問に徴用されたのだった。同時に彼女は、妹は徴用に反対したために牢に繋がれて、母はすでに急死した。彼は憤慨し、恥辱し、自殺の以外に道がなかったのである。
日記の最後の頁に彼は大きな日本語でこう書かれていたと言う。
支那人民は、日本人と連帯して立ち上がり日本の軍閥を打倒すべきだ」
 
3)「抗戦文芸」創刊号掲載:速報「揚州の日本兵自殺せり」(全文)
揚州日報で紹介された「抗戦文芸」掲載の速報:「揚州の日本兵自殺せり」は、抜粋であることから、その全文を入手した。
そこで、前述の抜粋文と重複しない記述のみ、ここに紹介する。
ここで補足できたことは以下の点である。

  1. 秋子の揚州での様子(非慰安婦的な印象)

  2. 宮毅の揚州慰安婦:芳子との関わり

  3. 宮毅の日中戦争に対する戦争観の3点である。

 
上述以外の記述は以下の通りである。
「揚州にはいわゆる慰安所が多数設置されており、そこは軍人慰安の場所というより、軍人による性的排泄の場所であり、そこには日本人女性と掠われてきた中国人女性がいた。
秋子が揚州に来たのは最近だと言う。一緒にきた娘達は彼女を見て、その日の夜まで話ができなった。彼女の挙動は軽率な振る舞いがなく、見たところ,娼婦であると見ることができなかった。彼女は、人知れぬ悩みを抱え、これまでに人と話す機会がないような人に見えた。
宮毅は、最近憂鬱であった。彼は周りの兵士から聞いたところによれば、手紙が沢山来る中で、妻からの手紙が何故来ないのかを訝っていた。以前彼は、大陸旅館にいた慰安婦芳子を良く指名していたが、その後ぷっつりと来なくなっていた。しかし死ぬ直前には大陸旅館にきていた。
芳子によれば、芳子は大陸旅館で彼を迎えたが、彼は腕を肩の上に挙げ、機嫌を損ねるように腕で力こぶをつくった。芳子はメンツが立たないとその場を去った。その後彼は秋子と暫く二人で話していた。秋子が涙を拭う様子を見たが、彼は二本のビールを飲み終えてから、去っていったと言う。
芳子に「貴女は、宮毅と秋子の関係はわかりましたか」と尋ねた。「わかりません。只一度彼が落とした財布から一枚の女性の写真を見ました。彼に誰かと聴いたら、妻だと言いました。」と芳子は答えた。そして「不思議に思ったことは、秋子の顔と彼の妻の顔がそっくりだったことです。それ以来秋子はここには来なくなりました。」
検査で宮毅のポケットから、妻の写真の一片が検出された。(写真は殆ど破られていた)。また大陸旅館慰安所利用身分証、幾つかの呪文、千人針、そして以下の三つの日本語の標語があった。
・貴方に考えてほしい、中国を侵略してどんな利益があるのか?
・日本の軍閥は貴方達の命を犠牲にして彼らの権力と地位をほしいままにしているのだ。貴方の敵は日本軍閥であって、中国ではない。
・聴いてみてほしい、貴方の愛妻が貴方の出征でいま号泣していないのか?」
 
3.現時点における検証の到達点について
1)発生日時について
この間の調査のなかで、この事件の場所を特定する情報はあるものの、しかし発生した日時に関する情報がない。
「抗戦文芸」創刊号発行が38年6月であることから、事件は最低一ヶ月前の5月と「大公報」で報じられた4月も想定できる。しかし現状では特定できる史料がない。
現時点では、事件発生を1938年4月から5月にかけて発生した事件として検証することが妥当であろう。
この発生時期に関する検証が不可欠である。
2)「宮毅一郎」について
宮毅一郎の出身地と家族に関する概要は把握できたが、7回に渡る出征、戦闘、負傷などの指摘があるものの、しかしその履歴と揚州駐留までの経緯は不明である。
宮毅一郎の揚州駐留に至る経緯を特定するために、第二次上海事変以降の日本軍の侵攻作戦ルートを辿ることにする。
そこで南京攻略戦経過要図でルートを検証するとして、揚州攻略部隊の主力は第11師団の天谷支隊であり、天谷支隊は、上海から南京への進軍で最北経路の第13師団の南側を西にすすみ、鎮江で北上渡河し、揚州に向かったという。
戦史叢書『支那事変陸軍作戦1』によれば、天谷支隊は、青島作戦のため待機していたが、上海における日本軍の苦戦を受けて、1937年9月3日上海呉淞に上陸し、12月8日鎮江に進入し付近砲台を占領し、13日鎮江付近で揚子江を渡河し、14日揚州を占領し、15日仙女廟占領江北大運河を遮断したと言う。
37年12月13日南京陥落後の駐留軍として17日以降第16師団が城内を担当したのに対して天谷支隊は、城外を担当し敗残兵狩りなどを行い、1月22日以降、復員する2月下旬まで南京全域を統治管理したと言う。
とすれば、宮毅は1937年12月14日揚州に駐留し、2月下旬に復員する南京駐留部隊とは別にそのまま揚州に事件のあった38年4~5月まで駐留していたということになる。
しかし、この天谷部隊であるという想定は以下の点から妥当ではない。つまり天谷部隊の編成地は、善通寺であり、その周辺としても四国であり、長崎を出生地とする宮毅が入隊する連隊にはならない。また天谷部隊は、9月3日の上海上陸であり、補充兵でなければ、宮毅が5ヶ月前に出征したとする条件に適合しない。
 
一方、旧日本軍は、本籍地における兵役検査と招集であり、宮毅一郎が「長崎」を出生地とすれば、兵籍は大村連隊区であり、第18師団麾下の歩兵第46連隊と想定できるかもしれない。第18師団は上海戦の苦境を脱するために派遣された杭州湾上陸部隊であり、南京戦では第10軍麾下にある。杭州湾金山衛上陸作戦は11月5日であり、南京戦では、最南部側撫湖の攻略部隊である。撫湖は、南京城内を軸にすれば、揚州とは対称的な位置にあり、時間軸は成立しても、空間軸から大村連隊区とは考えにくい。
とすると彼はどのような経路で揚州に行ったのであろうか?
現状では、南京戦に関する情報は多いが、揚州の占領と占領支配に関する日本軍の部隊移動に関する史料に乏しく、揚州占領支配に関する調査をすすめるしかない。
宮毅一郎の揚州までの従軍経路の検証が不可欠である。
3)「宮秋子」の参加した「尋夫団」について
冒頭の南京利済巷慰安婦旧址陳列館図集に記載された解説文に「尋夫団」との記述があり、宮毅一郎の日記にも秋子はもともと「皇軍慰問団」に参加し、その後に慰安婦にされたと言う。
皇軍慰問団については、1941年に国防婦人会が「大陸慰問団」と呼ばれる200名程の日本人を組織し、「部隊の炊事手伝いなどをして帰るのだ」と騙されて、皇軍相手の売春婦にさせられたとの記述がある。そのなかに、「九州の女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた」との記載を確認せれている。
また1942年に日本軍南方軍総司令部がビルマの慰安婦として、朝鮮軍司令部に依頼して703人の女性を動員したといい、彼らは「第4次慰問団」として釜山を出発したとし、その前後における年次慰問団の可能性が指摘されている。
皇軍慰問を名目に婦女を集めて、中国大陸及びアジア各地に送られた事例は余り多くない。しかしこの事例は、1940年代であり、1938年の初期の段階で政府及び市町村が関与し、慰問を目的に集客し、その後慰安婦にさせられたとする事例は、現時点では発見されていない。
「尋夫団」という呼称は、そもそも日本語で書かれた宮毅一郎日記から、ある具体的な募集行為を「尋夫団」と名付けたと思われ、具体的な根拠があるものと思われる。
また妹の投獄理由を「出征」としており、これが徴兵に対するものなのか、姉の参加した「皇軍慰問」に対する参加拒否を指しているのかは、現段階では定かでない。
宮毅一郎の「日記(日本語)」を閲覧し、その翻訳の根拠となる記述から検証しなければならない。
 
4.「秋子的故事」検証は何故必要か
この事件が事実として検証できるならば、その全体像は、私を含めて「戦争とは何か」を語る原体験を持たない世代が圧倒的な多数派となるなかで、再び戦争のきな臭さが漂う「積極的平和主義」なる欺瞞を語る今日の日本において「戦争とは何か」を考える契機の一つになりうるし、また戦争に翻弄された若き夫妻の凄惨な「絶望」を通じて、今日の学生を初めとした若き青年に歴史観と世界観を育てる一助になりうると思うからである。
同時に速報「揚州の日本兵自殺せり」の日記に対して裏付けができれば、以下の4つの視点から、その意味を探り、若き宮毅一郎と秋子夫妻の自殺から見えてくるものを明らかにすることができるからである。
1)異国の戦地における若き日本人夫妻の自殺
それは、故国日本から遠く離れた戦地における若き日本人夫妻の自殺である。
宮毅一郎は、まだ26歳にならない青年であった。秋子の年齢は定かでないが、20代の前半であろう。しかも彼らは結婚4ヶ月に満たない新婚夫妻であり、毎月お互いの身を案ずる手紙を欠かさず、便りのないことを苦に自殺をも考える極めて危うい関係に追いやられていた。
同時に異国の戦場に夫を送り出す妻の心境がいかばかりのものであったかは、想像に難くない。
2)戦地における「兵士と慰安婦」の自殺
それは、皇軍がアジアで繰り広げてきた戦地戦場における「兵士と慰安婦」の自殺である。日本軍は、天皇のためにのみ存在価値をもつ軍隊であり、つまり皇軍であった。しかしそれは観念の世界であった。日中戦争の勃発に伴う招集は緊急故に後備兵が多く、祖父母を抱え、妻と子を持つ者の出兵であり、早期の戦闘終結による復員を願うのは必然である。
皇軍は、皇軍兵士の性的排泄のための慰安婦を不可欠な軍隊であつたのである。
3)出征と慰問に美名を借りた二重の強制の自殺
それは、出征と慰問の美名のもとに異国の地を余儀なくされた夫妻の自殺である。
宮毅一郎は、26歳に満たない青年でありながら、7回の出征を繰り返し、また「北
から東の戦場へ、大小数十回の戦闘、何度もの名誉の負傷」という兵歴をもつ兵
士であった。
一方、出征後の家庭を預かる秋子の家計は、昭和恐慌と戦争動員態勢下の地方都
市における惨状として想像に余りあるものだ。秋子の「皇軍慰問」募集の内容は
定かでないが、妹や母の境遇もあって、自暴自虐の思いで、夫の駐留する揚州へ
の「皇軍慰問」を希望した可能性を否定し難い。
4)自らの祖国と家族への絶望と祖国と自己抹殺の自殺
宮毅一郎の日記にはこの戦争に従軍する戦士への問いかけの文言が3つあったことを紹介している。彼が七回にわたる従軍体験を経て、この戦争は「一体何のためにそして誰のためなのか」という戦争の本質を洞察し、日本軍兵に問いかけていたことが記されている。
初年兵の教育が中国軍民への刺殺を必須とし、部隊の食糧が一般村民の収穫物の略奪で賄われ、徴発が不能であれば、少女を食らうことも厭わず、大手商社の綿花略奪の戦闘に加担して、日銭を肥やす連隊の実像をみてきたならば、この戦争の本質をだれでも見抜くことができるはずのものであった。
しかし天皇の統帥権のもとに絶対的服従を強いられる皇軍は、このような実態と境遇を告発する途は、自らの死以外に選択することが出来なかった。宮毅一郎が、自刃に当たって、まずは自らの顔面を切り裂くことを余儀なくされたのは、この絶対的支配に対する自己抹殺であったと思えてならない。
 
5.今後の検証について
今後検証すべき事項について整理しておきたい。
1)中国側史料に関する検証
①南京利済巷慰安婦旧址陳列館への照会について
上記南京陳列館の所轄は、南京大虐殺記念館所轄であり、本稿冒頭の「尋夫団」という翻訳の根拠について検証することである。
つまり、「尋夫団」という翻訳は、宮毅一郎の「日記」に不可分の関係にあると推測できるからである。
②揚州市警察学会秘書長朱德林氏へのインタビュー
この間の調査経緯でいえば、「秋子的故事」に関する現時点におけるキーパースンは朱德林氏である。中国揚州における実態調査の担い手であり、最新情報をもつ研究者である。彼から現状の調査実態を把握し、検証することが不可欠である。
③宮毅一郎の日記(日本語)の入手について
この史料が第一次史料である。この入手が実現できれば、中国での検証は終了する。しかし、この日記は現在実在するのか、実在すれば何処にあるのか、実在とすれば、日本側が閲覧可能なのかを確認しなければならない。
現在、南京在住の中国人研究者に照会しなければならない。
2)日本側史料に関する調査について
①揚州攻略と占領支配に関する調査について
揚州攻略および占領支配に関する日本軍の移動に関する情報を把握することにより、宮毅一郎の揚州駐留に至る経緯検証すること。
②皇軍訪問団に関する調査について
西日本及び九州長崎における市町村を初めとした慰問団活動及び慰安婦募集に関する秋子の揚州訪問と慰安婦改組に関する経緯を検証すること。
6.おわりに
もう一つ、調べたいことがある。それは、秋子的故事との直接的な関わりはないと思われるが、1938年4月~5月の揚州における日本軍兵士の絶え間ない自殺である。
すでに「南京自治政府委員会」による占領統治が開始された段階において、揚州では、自殺する日本兵が絶えなかったということは何を意味するのであろうか?
南京における凄惨な略奪と破壊、放火と殺戮、強姦と虐殺という現実と、揚州における兵士の絶え間ない自殺とは、あまりにも異なる様相を想像しなければならない。
兵士の自殺は、イラク戦争に参加した自衛隊の自殺事例を想起するが、しかしここは占領支配地の戦場における自殺である。このような事例も知られていない。
これは一体、どのように理解すべきか、自問するばかりである。


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