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「家庭が穏やかに過ごせる楽しい場であること」が希望だった幼少期

ジャッジしている時って、感じていることと考えていることが対立している状態なんだと思う。
感じていることと考えていることに隔たりが生まれ、内外不一致が起こる。

でも、感じていることをそのまま感じて、だからどうするのか?どうしたいのか?を考えれば、一致はせずとも辻褄は合う。
どうしたいのか?が真の欲求と一致していると、内外一致する。

わたしには、内外不一致なことがよくある。
昨日、デイサービスで入浴介助をしていた時、利用者さんが急き立てるようにわたしに指示をする。
要望は特にゆっくり難しいことではないけれど、息が詰まりそうになっている自分を感じて、ハッとした。
相手の言う通りにしたくなくて反発しているような感じ。その通りにすることに反発しているというよりも、気忙しい様子が受け入れられなかった。
急かされているように感じて窮屈になるのだ。

こうやって振り返りながら思い出すのは、幼少期のこと。おっとり、どんくさい、マイペース、要領が悪い、そんなわたしはおそらく何をするにも周りと比較するとゆっくりだったと思う。
そんなわたしを見て、ちゃきちゃきしている母はもどかしく感じることが多々あったのだろう。なんなら、もどかしさすら感じず、自分のことで精一杯でそのペースについてきなさい!ばりに急かされていたような記憶がある。

その時のわたしは、母の機嫌の悪さに怖さや窮屈さを感じて縮こまっていた。
推測に過ぎないが、母の機嫌の悪さがわたしによるものではないことの方が多かったんじゃないだろうか。
身体がしんどかったり、仕事のストレスだったり、父親への不満だったり。

だとしたら、いや例えわたしの影響だったとしても、母の機嫌は母がとるもの。
本心は、「八つ当たりすんな!くそババア!」「あぁー、今日もピリピリしてる。居心地悪すぎるし!」「その愚痴、わたしじゃなくてパパに言ってよ!まじムカつく!」とかそんなことだった。
当時はそんなこと表現する術は知らず、ほんと苦しかった。

だけど、今はこうやって表現できる。

そして希望は、家庭が穏やかに過ごせる楽しい場であること。たくさん話を聴いて欲しいし、ケラケラ笑いながら過ごしたいっていう欲求があった。

整理がついた今、昨日の利用者さんにも寄り添う余裕が生まれて、自分の気持ちもみえてきた。
利用者さん、制限が多い中で育ってきたのかなぁ、どんな恐れや不安を抱えているのだろう。
後から振り返って気づいたのは、委ねることに怖さを感じているようだったということ。
ストーマ(人工肛門)の処置に手を出した時にやけに穏やかだと思ったら、会話の中でわたしが看護師だってことを伝えることがあったようで、それに安心していたらしい。
相手にどうされるのかわからないことが不安なのかもな。
先にこーして!あーして!って言うことで防御してるのかもしれない。
声をかけるとしたら、
「初めて会った(正しくは2回目)わたしに介助を委ねるのは、不安ですよね。」だろうか。

わたしの気持ちは?
捲し立てている気がないのはわかるけれども、それでも𓏸𓏸さんの言い方だと、捲し立てられているように感じてびっくりするし、心地が悪い。
というのが本心。
わたしの背景ありきになるから、その話もできたら、互いの理解が深まるのだろう。

自分が問題をもっているときは、目の前の人に寄り添う余裕がない!

幼少期のように、それ以上事態が悪くならないようにとただ縮こまる選択を多々している。
心の中でめっちゃ文句言いまくっていた頃もあった!脳内ツイートしまくって、ぐっと堪えてた。
アウトプットした後に、さらに怒られたり機嫌が悪くなると思っていて、それをまたさらに感じることを避けたかった。

自分の気持ちや考えを素直に表現することが、自分の気持ちや言動に責任を持つこと。

相手がさらに怒ったとしても、それは相手の中で起こっていること。ただ、素直に表現したとて、こちらに興味が向かないのは、寂しいし悲しい。
わかり合えないことも辛いけれど、その努力をしないことは虚しい。

闇にはただ光がないだけ

アラン・コーエン

自分に対して怒り続けているのは、闇の中にいるから。
そこに光が差すことが救いになる。


子どもの頃のわたしは、素直に表現する術を知らなかったのではなくて、本心を言ったらさらに怒られたり居心地悪くなったりするんじゃないかと想像して、それを避けるために言わない選択をしたんだ。
これもひとつのカルマなら、自分の気持ちを素直に表現していくこともターニングポイントの鍵となっている。

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