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今を懸けるー”私がcircleを創る理由”インタビュー Vol.4

暮らしを多様化することで、一人一人が自身の軸を見出すためのサードコミュニティを作っていくーそんなビジョンを掲げる、暮らしのサービス「circle」。

運営している人はどんな人?何でcircleに関わってるの?ということで、"私が circleを創る理由"をnoteにてご紹介しています。
第四弾は、circleの体験設計やデザイン、事業開発を手掛ける原さん
原さんの経験や想いをお届けいたします。

【プロフィール】

原さん
静岡県三島市出身。元クラウドワークスの社員でフリーランスのUI/UXデザイナー。circleのデザイン、クリエイティブ、設計などに関わっている。
現在はフリーランスで活動する傍ら、新たな人生の軸として「林業・森林」に関わる取り組みを始め、活動を広げている。

”わきまえた子”でいた

父は公務員で高校の先生、母は主婦の家庭に育ちました。
母親は私の進路に時々意見を言ってくることがありましたが、父親は私がやることに否定も肯定もせず、見守ってくれていたと思います。
今振り返ると、父は仕事以外にも様々な社会的な活動をしていて、知り合いも多様な人が多かったです。例えば、父は今でも知的障害のあるお子さんを週末に預かるボランティアをしているんですが、私も小さい頃にそのボランティアについて行ったりしていました。
そうやって父が私に、学校で普通に生活していては接点がない人たちと接続してくれたことは、その体験は今の自分を形成しているピースの一つだと感じています。

学校では、いわゆる”真面目な生徒”だったと思います。学校生活は、正直あまり良い思い出がありません。
今でこそ多様性が叫ばれる時代になりましたが、当時ランドセルは「男の子は黒色、女の子は赤色」でした。子供ながらに「どうして選択肢が2つしかないんだろう」と思っていました。私は赤色が嫌だったので、ささやかな抵抗、意思表示として、赤紫色のランドセルを選びました。
決まった選択肢しかないと思わせられる環境が、当時の自分にとって閉塞的だったように感じます。

小さい頃、ずっとショートヘアでズボンといった身なりだったんですが、小学校高学年になると、周りから「もうちょっと女の子らしくしたら?」と言われるようになりました。
通っていた中学校の制服がセーラー服指定で、制服もとても苦痛でした。ただ、その時はそれ以外を選ぶ勇気も、拒否する勇気もその時はありませんでした。似合わないと感じるセーラー服を着て、日々登校していました。

この頃から、徐々に「もう一つの選択肢を欲しがるのはやめよう」と、自分を抑えるようになっていた気がします。他の子と違うことをしたり主張したりして、周りから浮くのが怖かったし、変わっている子だと思われたくありませんでした。
”わきまえた子”でいようと思うようなり、割り切ったことによって、逆に生きやすくなった部分もありました。

「なぜ駅前にいるホームレスの人は見ないふりをして、遠い国の人たちを支援するの?」

高校は地元の進学校で、先生からは国公立の大学進学を薦められました。今思えば、他に選択肢がないようなその環境にもピンと来ていなかったんだと思います。高校3年生の夏休みに読んだ本に感化され、その著者が大学教授で、たまたま指定校推薦にその大学がありました。この教授のもとで学びたいと思い、その大学に進学することを決めました。

その教授が南米などの環境問題に取り組んでいる人だったのもあり、「環境破壊が進んでいる海外の地域で保全活動をしたり、啓蒙活動のようなことをしてみたい」と思っていましたが、大学に入学してすぐに転機が訪れました。

進学した大学の学部は、ボランティアや国際支援に力を入れた学部で、キャンパスは横浜市戸塚区にありました。地域のボランティアの繋がりで知り合った方が、その戸塚で長く地域活動をしている喫茶店の店長でした。
会ってすぐ店長から、「なんで駅にいるホームレスの人は見ないふりをして、遠い国の人たちの支援をするの?」と聞かれました。

その時、私は言葉を持っていなくて、何も言い返せませんでした。
今であれば、途上国などへの支援をされている方たちが本当にものすごい信念を持って取り組んでいることがわかります。ただ、当時の私はそういう”スタイル”に憧れていただけなんだな、と気づきました。

そこから店長のもとで他の大学生たちと町おこしの事業をやったりと、大学4年間は地域活動に打ち込んでいました。
店長は自分にとって”師匠”のような存在でした。
店長はフォローや指導がとても細やかな人で、めちゃくちゃスパルタでしたが(笑)、今でも自分の仕事や人とのコミュニケーションの基礎はこの時に教わったことだなと感じています。
喫茶店という場所にはそれこそ色んな人が来るので、年代も価値観も違う人たちとコミュニケーションを取る方法も身についたと感じています。

店長の姿勢で、特に記憶に残っていることがあります。
駅前でイベントをよくやっていたんですが、地方から運んできた2トンの雪を駅前の広場に下ろして、子供たちに解放するイベントを毎年開催していました。ある時、イベントに参加したお子さんの片目に雪が入り、負傷してしまったんです。結果として大事には至らなかったんですが、その時に店長が「その子の目が見えなくなったら、自分の片目も潰して謝る」と真剣な顔で話していました。

それだけ一つ一つのことに責任と覚悟を持っている人でした。誰であっても真正面に向き合う人で、今でも”自分を内面から変えてくれた存在”だと感じています。
その喫茶店は、大学を卒業し社会人になった今も、自分の中で迷った時にふらっと立ち寄る場所です。

それでも自分らしくいられた場所

大学生活も半ばになり、就職活動を始める時期が来ました。私が新卒の就職活動をしていた時は、ちょうどリーマンショックの影響で就職氷河期でした。
「こういう会社に入りたい」と選べるような状況ではなく、唯一内定が出たネットの光回線の営業会社に就職しました。個人宅に光回線を引いてもらう、いわゆるピンポン営業です。
大学時代の地域活動を通して、いろんな世代の方と話してきた経験があったからか、現場に慣れるのは早かったと思います。とはいえ続けたいと思える仕事ではなく、結果として1年弱で会社を辞めてしまいました。

就職氷河期を経験したこともあり、「手に職をつけたい」と思い、スクールに通ってWebデザインの勉強を始めました。
大学時代に地域活動をしていた時も、初心者なりにチラシなどを作っていて、それが楽しかったのと、もっと上手くなれば地域で役に立てるかもしれないと思っていました。

もう一つ、デザインを仕事にしたいと思ったきっかけとしては、実は高校生の時、美大に行きたかったんです。母に反対されて諦めましたが、当時は意見を最後まで貫く覚悟もありませんでした。
デザインや美大に興味があったのは、小学校の6年間、習い事でアートスクールに通っていたことが大きいと思います。習い事は他にも色々と始めてはやめていたんですが、アートスクールだけは続いていました。

通っていたアートスクールは少し変わっていて、ずっと座ってデッサンを描くようなことはあまりなく、海で石や流木を拾ってきてオブジェクトを作ったり、いろんな表現の仕方を遊びながら体験しました。先生たちも変わっていて、アーティストの卵や「この人たち、何で生計立てているんだろう?」という感じの人たちが多かったです。
スクールに仲の良い友達はいなかったんですが、学校より居心地は良かったんですよね。今思えば、私にとっての「サードプレイス」だったんだと思います。

Webデザインの勉強を経て、制作会社や広告代理店を転々としながら、デザイナーとして働くようになり、20代半ばに差し掛かった頃。
周りの友達から結婚や出産の話を聞くようになり、小さい頃に感じていた「自分もそうしなければいけない」という息苦しい義務感をまた感じるようになりました。
ちょうどその頃、Netflixが普及してきて海外の番組を見るようになりました。一番刺激を受けたのが、アメリカのドラァグクイーンのリアリティーショーでした。
まだLGBTQ+のことが社会で議論にもなっていなかった時代から、自己と向き合いながら自分らしさを表現する人たちを見て、「自分もそのままで居ていいんだ」と思えるようになりました。自分が小さい頃に言って欲しかった言葉を、かけてくれた気がしました。

circle、それは「循環」

制作会社に勤めているときに、知人からスタートアップの立ち上げに誘われたことをきっかけに、フリーランスで活動することになりました。

circleを立ち上げた紺谷さんと、一番最初に出会ったのはフリーランスとしてクラウドワークスのエージェントサービスに登録した時です。当時、紺谷さんはそのサービスのキャリアアドバイザーに配属されたばかりの頃で、私はサービスに登録した”ワーカー”として出会いました。

キャリアアドバイザーである紺谷さんからお仕事を何社か紹介してもらっていて、クライアントの面談をいくつか受けていました。
紺谷さんから電話がかかってきて、「すみません、原さんの単価のお伝えの仕方を誤ってしまって、〇〇社さんにご希望より低く伝えてしまいました。申し訳ありません…」と言われました。
その会社さんの案件はお断りしようと思っていたので良かったんですが、後でよくよく考えると「わざわざ私に言わなくてもバレなかったんじゃないかな」と思ったんです。
言わなくてもバレないかもしれないけれど、わざわざ伝えてくれたことで、「この人は信頼できる人だな」と感じました。

その後、ご縁があってクラウドワークスに社員として入社することになり、色々な仕事を経験させてもらいました。
circleに関わるようになったきっかけは、紺谷さんから「準備している新規事業のサービスロゴを作って欲しい」と相談があったことです。
circleのコンセプトや世界観を話していて、circleのモチーフとなった「循環」の図を見せてもらった時、これまでの自身の経験がつながり、新しい気づきが生まれたんです。ロゴもこの循環を表しました。

circleのコンセプト、サービス名、ロゴ・シンボルデザインの全ての元となったモデル図

circleの事業準備で、福岡の拠点に視察に行ったことがありました。
拠点のオーナーさんと話をする中で、自分の出身ではない土地に愛着を持ち、今では滞在場所を作って人と地域が交わる場づくりをされていると聞いて、「自分も地元に何か還元できるようになりたい」と思いました。

以前から自分の地元に愛着はあって、大学時代に地域活動をしていたこともあり、今度は自分の地元で何かやりたいとずっと思っていました。
そんな時、既に地域で色んなことに取り組んでいる人たちを見て、自分がまだ地元に対して何もしていないことに焦りを感じたんです。
自分の本当の気持ちに気付き、会社を辞める決心ができました。

会社を辞める時には、「林業や森林に関わることをしよう」と決めていました。地元の課題の中でも、自然や山に関して一番課題意識があったからです。大学時代から、地域活動の一環で里山保全のボランティアを細々とやっていて、これだけは社会人になってもずっと続けていました。ずっと続いていたのは、里山という場所が人間社会と違う世界だからかな、と今振り返ってみて思っています。人間の世界には「成長」や「衰退」という概念がありますが、自然界にはその概念はありません。あるのは「循環」だけです。
日々の仕事や人間関係で疲れることもありますが、自然界に近いところに身を置くとそこで一回リセットされるような気持ちになります。
そうやって二つの違う世界を行き来することで、息抜きができますし、”どちらかの世界しかない”という窮屈さも、きっと緩和されていたんだと思います。

今を懸ける

現在はcircleにはフリーランスで関わりながら、林業や森林について学ぶアカデミーに通ったりして、体系的に学びを深めています。そこで、森林は木材を生み出すだけでなく多面的な利用ができることを知って、そういった方向性にも興味が出てきました。

ただ、林業は作業中の山での事故などが多く、死亡率が高い産業です。
昨年末に林業の初心者研修を受けましたが、正直「まだ死にたくないな…」と思ってしまって、現場ではないところで何かできないかと考えていました。でも最近、「それってすごく虫がいいよな」と思うようになったんです。

「死亡率」というとただの数字ですが、実際にそれだけの人が現場で亡くなり、誰かが家族を失っているということです。
自分以外の誰かにリスクを負わせて、自分は安全な場所で「持続的な森林づくり」に取り組むことは私にはできない、と思いました。
だからこそ、労働環境の課題を解決することもセットでやらなければいけない、と考えるようになりましたし、自分自身で現場に行って経験することが重要だと思うようになりました。
最近は地元の山の作業に入らせてもらったりして、少しずつですが現場を経験しています。

他にも林業研修を一緒に受けた人たちと、神奈川県西部で森林に関わる様々な取り組みを進めていますが、単純な仕事という枠を超えた、一緒に目指す姿に向けて同じ課題意識を持って協働している「仲間」だと感じています。そんな人たちを、そんな居場所を大事にしたいと思っています。

今、私は林業や森林の活動に取り組んでいて、将来的に地元に還元していきたいと思っていますが、ずっと先の未来のことはわかりません。
20代後半から西洋哲学の本をよく読むようになったんですが、ずっと心の奥に置いている言葉があります。
ヤスパースという哲学者の「過去の虜にも未来の虜にもならぬこと。全く現在的であることが重要である。」という言葉です。今を生きること、それが重要なことです。

向き合いたいと思う課題が、将来変わっても全然いいと思っています。ただ、現在を惰性で生きないことが大事だなと。
自分の未来をすべて懸けなくてもいいけれども、今は懸けたい
そして、どんなに大きく見える社会課題に対しても、現場に赴き、現場を大切にすること。この思いは、今後自分の中の課題が林業・森林でなくなっても、決して変わらないことだと思います。


あなたもcircleで、”今を生きる”時間を過ごしてみませんか?