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イランとイスラエルの紛争

日本では大谷のホームランに一喜一憂しているこの頃ですが、世界ではこの中東の紛争が大きな戦争へと発展しそうな状態です。

戦争というのはいつの時代も、一部の人間によって実行に移され、それに多くの無知な民が巻き込まれていくという形です。一度、暴力による殺傷が発生してしまえば、あとは国民の中に生じた憎しみによって暴力の応酬が肯定され、大きな戦闘が始まってしまうのです。

戦争状態になった時点で、それは誰の勝利でもありません。関わった人間全ての失敗であり「敗戦」です。その失敗の代償は数百年にもおよびます。実際的に、現在のイランとイスラエルの紛争も、イスラエル建国という強引な政治的行為によって発生した4度の戦争の影響が続いているものです。そしてイスラエル建国という行為自体が、数千年も前の出来事に由来しているのです。人の怨念とはかくも強いものだと認識しなければなりません。

一見すれば、戦争において勝利したものは「勝者」であるかのように振る舞います。しかし、多くの人を殺しておいて枕を高くして寝られるわけがないのです。必ずといっていいくらいにその報いが発生します。他者集団を殺戮するという行為に正義など存在しません。そこにあるのは、ただの狂気です。他者を暴力で駆逐する行為の結果は、恨みの醸成とその復讐者の創出に他なりません。

例えば、テロリストと認定される人々がいます。しかし彼らに言わせれば、彼らの暴力は「正義」なのです。体制を脅かす事がテロ行為だと政府側は認定するでしょう。しかし、政府や他国から暴力を受けた人間たちがその報復行為として暴力を行うことはごく自然な事ではありませんか? 自分がやられたことを相手にやり返す。これを論理的に否定する理屈などありません。自分の暴力はよくて、相手のそれを認めないというのは論理破綻です。

もちろん、暴力を肯定しているわけではありません。暴力を行使して無事でいるはずがないという当たり前を述べています。一度暴力を繰り出せば、あとは泥沼です。一生涯を暴力に身を投じる事になるでしょう。そのような事の中に、幸福など存在しません。

では暴力を受けた人間はどうあるべきか。非常に困難な課題です。我々にはこの状況に対して甘んじていられるほど、弱くなければ、寛大でもありません。妥当と思われる対応とはどういうことか、誰にもわからないのです。大変残念な事ですが、70億人もいるという人間の誰も、この命題に誰一人として答えられないのです。

答えに近づいた一人がガンジーだったのかもしれません。非暴力・不服従は一つの手段でした。けれども、ほとんどの人は彼らの思想を内面化できませんでした。共感した人々もまた、日々の生活の中で忘れていきました。

そして今も、暴力を受けた人間は苦しみ続けています。軍による暴力には、直ちに軍による報復が実行されてしまうのです。そうでもしなければならないかのように。

人類とはかくも愚かな存在です。いまだに暴力に頼って、暴力による犠牲者と復讐者を作り出し続けています。人間には口がついていて、話をすることができるのにです。

さて、イランとイスラエルの紛争について、現状を把握しておきましょう。客観的にみて、イスラエルという国のおぞましさがわかる状態です。とはいえ、別段、イラク側を良しという話でもありません。

イスラエルはパレスチナ問題を建国時から抱えています。そりゃそうです。そもそも先住民であったパレスチナ人を追い払って世界中のユダヤ人たちが入植したのですから。この強引な建国を国際社会は肯定・黙認しました。

その結果、あの一帯のアラブ系の人々との軋轢を生みます。それが4回もの中東戦争を招きました。そしていまや5回目の戦争の夜明け前でしょう。

ハマスという存在は、いわば「暴力を受けた側の抵抗行為」です。その背後にイランがいると言われています。イスラエルの入植政策によりパレスチナ人は南側のガザと東側のヨルダンに地に追いやられていきます。いわゆるアパルトヘイトです。天井のない牢獄と呼ばれるほどに行動が制約され、暮らしが圧迫されたパレスチナの人たちの一部は、結局、暴力行為に出る他ありませんでした。それが10月7日の事。

イスラエルは千数百人の犠牲をだし、数百人の人質が取られてしまいます。この事態に対するイスラエル政府の対応はまたも暴力でした。戦闘員も非戦闘員も関係なく、ガザに空爆をしかけます。そうしてパレスチナ側は数万の命が失われ、住む場所も食料も奪われました。これもまた「暴力を受けた側の行為」です。イスラエルの少なくない人々はパレスチナ人を徹底して排除したいと思った事でしょう。一方で、パレスチナ人にとっては最悪なジェノサイドとなりました。

この事態を憂慮した周辺諸国。シリアのヒズボラがイスラエルと交戦を始めます(3月中旬より)。ヒズボラという組織の背後にまたもイランがいます。イスラエルはイランへの警告も込めたのでしょうか、シリア内にあるイラン領事館を空爆します。(イスラエルは犯行を公表していませんが、アメリカなどがそのように推定してます。)その結果、10名程度のイラン軍人が殺されてしまいました。4月1日の事です。

この惨劇にイランは直ちに反応します。そう「暴力を受けた側の行動」です。暴力には暴力を。国というのはそういう反応しか出来ません。そのような行為にしか国内的な政治を宥める方法がないのでしょう。イランは、4月13日に、ドローン、ミサイルなど200機ほどをイスラエルに向けて発射しました。これがイランによるイスラエルへの直接攻撃の動機です。

上記が直近の動きの概略です。日本のメディアでは、あまり背後を説明しません。理由の一つは、日本はアメリカの金魚のフンだからでしょう。アメリカは、この事態に困っています。ガザで行われているジェノサイドはわかっているが、イスラエル支持の国是からイスラエルに停戦を強要できません。イランの報復攻撃について批判するのは当然です。その背後にいる日本では、ガザの状況とイランを結びつけて報道することは都合が悪いと考えるのでしょう。

上記をみてきて、問題なのは暴力を受けた側の対応がどうあるべきかという事が問題だとわかるはずです。

いやいやそもそも、暴力をする側が問題なのだと思う事でしょう。当然です。ところが、恐ろしいのは暴力をする側の理屈も「暴力を受けた」事によるというのです。イスラエル建国の発端は、ユダヤ人がエジプトから追われた事でした。つまり「被害者」なのです。

ロシアですら、ウクライナ進行はウクライナの東部地区への圧力を救済するという「被害者」論理です。

これらをただの大義であって建前ではないかと、一蹴するのは簡単です。しかし、人間は利害関係を抱えており、常に被害者になりうる状態にあります。被害妄想のこともあるでしょうが、暴力の背後には虐げられているという恐怖や不安が存在するのです。ロシアの行為の背後にはNATOからの圧力というものがあります。

誰かを精神的に追い詰めれば、その反発を招くことになるのです。それが時に暴力として噴出する。想像に難くないことでしょう。

人類は、結局、利害関係のために誰かを虐げます。その怨念は決して消えることはありません。大きな反発となって現れるのです。白人が黒人にしたように。そしてその怨念は疑心暗鬼を生み出し、過剰な被害妄想を生み出します。自らが虐げた存在に恐怖し、その恐怖が被害者論理を生み出し、小さな暴力をきっかけに大きな暴力が発生するのです。なんと自分勝手な事でしょうか。そしてなんと不幸な事でしょうか。いくらでも良好にやる方法があるというのに、自分たちの優位性を利用した暴力行為による搾取がやめられないのです。その上で、虐げた相手に恐怖し、それを押さえ込もうとさらなる暴力を行使する。なんと愚かな事でしょう。

人類史をみれば、こんなことがそこかしこに存在します。日本にだって平将門の祟りなど有名な話があります。相手が死してもなお、恐れることなど、実によくあるのです。

イランとイスラエルの紛争は、決して対岸の火事ではありません。それはまず経済的な問題として我々を襲うでしょう。次に政治的な問題として。アメリカとイランに対立が起これば、連動してロシアや中国とも緊張することになります。それはもしかすると第三次世界大戦の前哨戦という可能性もあるのです。

私たちは暴力とどう付き合うのかをもっと真剣に考える必要があると思います。

参考までに動画を。親しみが持てそうなものを紹介。

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