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冷たい男 第8話 冷たい少年(8)

 赤い毛糸に導かれて辿り着いたのは町から離れたところにある小さな森であった。
 小さいと言っても街にある植林されて造られた人口の森ではなく、古くからこの地で開拓されることもなく残った森なのでとても暗く、そして深い。特に夜になれば月の光が微かに届く程度で普通なら足なんて踏み入れることなど考えもしない。しかし、赤い毛糸は迷うことなく森の中を進む。それを追いかけて副会長と冷たい少年も突き進んでいく。スマホのライトで足元を照らし、葉と葉の間から漏れる月の光と赤い毛糸の周りから発する青白い光だけが頼りだ。
 木の枝や草がぶつかり、皮膚を傷つけ、薄い痛みが走る。しかし、それでも2人は進むのをやめなかった。
 視界が晴れる。
 赤い毛糸が宙で止まる。
 木々に遮られていた月光が降り注ぎ、闇に閉ざされていた世界を映す。
 2人の視界に入ってきたのは沼であった。
 月光に照らされて尚も黒く、暗い新円の沼。
 その沼を見た瞬間、冷たい少年は全身の皮膚が泡立つのを感じた。副会長に至っては全力で走って頬が紅潮していたはずなのに真っ青に染まる。
 店主が言っていたよくないものとはこの沼のことだ、と直感して分かった。
「何だ・・・ここは?」
 副会長は、ふらつき、胃の辺りを押さえる。
「魔法の泉・・・じゃないな」
 冷たい少年は、乱れそうになる呼吸を整える。
 女神が住むような泉がこんな禍々しい訳がない。
「あの娘は・・・」
 副会長は、膝を震わせ、嗚咽する。
 しかし、その目は女の子を探そうと必死に動かす。
「おいっ大丈夫か?」
 冷たい少年が声をかけるも副会長は膝に手を付き、倒れそうになるのを必死に堪えながら沼を見る。
 恐らく、副会長は俗に言う霊感が強いのだ。
 冷たい少年なんかよりも遥かに。
 沼から発せられる禍々しい気を受けて身体の変調を起こす程に強く、そして無防備なのだ。
「一旦、ここから離れよう。お前が参ってしまう」
 冷たい少年は、副会長に呼びかける。しかし、副会長は答えずに沼を見る。
 そして震える手を上げて、人差し指を沼に向ける。
「あれを・・・」
 冷たい少年は、副会長の指の先を視線で追う。
 波一つ立たない暗闇の沼、その反対岸に弱い月光に映されてぼんやりと何かが見える。
 冷たい少年は、目を凝らす。
 ぼんやりとした何かは少しずつ形を成していく。
 猫の目のように細く、少しずつ形を整えながらそれは人の影に変わり、人の姿になっていく。
 それは沼に向かって両手を合わせて祈る女の子であった。
 冷たい少年がぼんやりと映っていたそれを女の子と捉えた瞬間、副会長が走り出す。
 女の子の名を叫び、何度もよろけながらも懸命に走る。
 女の子は、必死に祈っていた。
 彼女は、目の前の沼が絵本で読んだ魔法の泉と信じて疑わなかった。
 女の子は、必死に祈った。

 おもちゃもいらない、お菓子もいらない、ずっといい子にする・・だから・・・。
「ママに会わせて」
 沼の表面が揺れる。
 小さな気泡を無数に上げて布の下に手を突っ込んでいるかのように波を立ててうねり上がる。
 その姿は海底から首を出した巨大なミミズのようであった。
 しかし、女の子の顔に恐怖はなかった。
 その顔に浮かんだのは歓喜。
 女の子は泉の女神様が現れたのだと信じて疑わなかった。
 沼が首を傾ける。
 ゆっくりとゆっくりと女の子に近寄っていく。
 女の子は、逃げない。
 それを女神と信じ、願いを叶えてくれると疑わない。
 沼の首が女の子の顔の前まで迫る。
 水面に女の子の顔が映る。
 女の子は、歓喜する。
「女神様、どうかママに会わせて」
 沼の首に亀裂が走り、ゆっくりと開く。
 それは地獄を彷徨う餓鬼のような醜い口。
 沼の首は、女の子を飲み込もうする。

 刹那。

 女の子の身体が勢いよく飛ばされる。
 草に覆われた地面で女の子の小さな身体が跳ねる。
 女の子は、痛みに呻き声を上げながら顔を上げる。
 先程まで女の子がいた場所に副会長がいた。
 地面に転がり、青くなった顔で女の子を見る。
「逃げろ!」
 副会長は、叫ぶ。
 沼の首が副会長の身体を飲み込む。
 視界が暗闇に覆われる。
 息苦しい。
 ゆめりっとした重圧が身体を押し潰す。
 意識が遠退く。
 しかし、それでも副会長は女の子を救えたことに安堵する。
 そして冷たい少年が女の子を連れて逃げてくれることを心の底から願い、意識を閉ざした。
 ・・・・
 ・・・・
 ・・・・
 ・・・・
 身が焼けるような冷たさが副会長を覆う。
 重圧が消え、岩のような硬いものが身体を包む。
 この冷たさと硬さには覚えがある。
 幼い頃から親しみはあるが全身で感じたことなど決してないもの・・・。

 氷・・・?

 そう認識した瞬間、視界に亀裂が走る。
 清浄な空気が亀裂の隙間から入り込み、弱々しい月光が網膜を舐める。
 赤いものが視野の端に映る。
 右の手首に何かが巻き付く。
 そして抗うことの出来ない力で身体が引っ張られる。
 ガラスの砕け散る音と共に外気が一斉に身体を襲う。
 草の匂いと地面の固さに全身に衝撃が走る。
 外だ・・。
 副会長は、肺の中いっぱいに入り込んだ外気に咽込む。
横隔膜が何度も何度も震えポンプし、副会長は、腹這いになって嗚咽するとどろっとした液体が口の中から溢れる。
 泥の混じった沼の水だ。
 副会長は、手の甲で口を拭うとその手首に赤い毛糸が結びついているの気づいた。
 この沼まで導いてくれたチーズ先輩の赤い毛糸だ。
 ほんのりと毛糸から熱が伝わる。
「助けてくれたんですね」
 副会長は、そっと毛糸の上に手を乗せる。
「お兄ちゃん・・・」
 女の子が呆然と副会長を見ている。
 その顔に浮かんでいるのは・・怒りだ。
「何で・・・邪魔したの?」
 副会長は、眉を顰める。
 そこでようやく眼鏡が無くなっているのに気づく。
 沼に飲まれた時にどこかに飛んで行ってしまったのか?それとも沼の中に落ちてしまったのか?
「泉の・・,泉の女神様が願いを叶えてくれるはずだったたのに・・・」
 唇を噛み、服の裾を握りしめ、憎しみのこもった目で副会長を睨む。
 5歳の女の子がここまでの怒りと憎しみを抱くことができるのだ、と副会長は驚く。いや、それだけ強いのだ。

 母に会いたいと言う思うが。

 副会長は、濡れて重い身体を起こしてその場に胡座をかく。地面にぶつかった衝撃で身体中に激しい痛みが走るが顔には出さない。女の子に似た一重の目を真摯に前を向ける。そしてゆっくりと頭を下げる。
「すまなかった」
 副会長の謝罪に女の子は驚く。
 怒られこそすれ、謝られるなんて思ってもいなかった。
「お前のママに会いたいって思いをちゃんと組んでやれていなかった。辛い思いをさせた、悲しい思いをさせた。それは俺たち大人の責任だ。本当にすまない」
 難しい言葉。
 5歳の女の子に理解しろと言う方が難しい。
 しかし、その言葉が女の子を思って発せられた言葉であると言うことはは頭ではなく、心で理解出来た。
「でもお願いだから危ないことはしないでくれ。お前に何があったら悲しむのは誰だ?」
「・・お兄ちゃん?」
 副会長は、首を横に振る。
「ママだよ。ママを悲しませることだけは絶対にしちゃダメだ」
 女の子の目から涙が溢れる。肩を揺らし、嗚咽する。
 副会長は、両手を大きく広げる。
 女の子は、副会長まで駆けて、その胸に飛び込む。
 女の子は、大声で泣く。
 副会長は、優しく背中を撫でる。
「オレがママに言うから。お前に会ってやってくれって。約束する。だからもう危ないまではしないで・・な」
 女の子は、大きく頷いた。
「私、怖かった。お兄ちゃんが水に飲み込まれて、そしたらいきなり凍りついちゃって・・もう会えないんじゃないかって・・・」
 女の子の言葉に副会長は顔を上げる。
 そして沼の方を見て絶句する。
 暗く、暗い沼は凍りついていた。
 うねり、盛り上がった沼は脱皮した蝉の抜け殻のようにその鎌首を持ち上げたまま凍りついていた。
 そして沼の先には・・・。
 副会長は、目を瞠る。
 沼に手を突っ込み、そのまま白く凍りついた冷たい少年の姿があった。

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