「内なる声を聞く」に潜む罠

「内なる声に従おう」

「心の声に耳にすませよう」

「直感に正直にいよう」

多くの書籍に書かれている言葉だ。
成功者と言われる人たちも、そう語る。

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しかし、ここで改めて考えたい。
この「内なる声」「心の声」は誰の声なのだろうか?

当たり前のように、自然とこう答える人が多いはずだ。

「私が本当に望む、私の声である」

家族から直接聞いた声ではない。
友人からLINE通話で聞いた声でもない。
同僚が会議で話していた声でもない。
紛れもなく、私の内側のどこかから湧いてきた声であり、言葉だ。

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次に考えたいのは、「内なる声」が私に何を示唆するのか、である。

大きく二つのパターンがある。

  1. 自分の行動に対して、背中を押す声

  2. 自分の行動に対して、制止する声

この二つが天使の声と悪魔の声のように押し引きし、私たちは悩み、決断する。
制止する声が勝った場合、私たちはそこで歩みを止めることになる。

ここで落ち着いて考えよう。
「内なる声」を聞くのは、どんなシチュエーションだろうか?

そう、前に進みたい時なのだ。

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背中を押す声は語りかける。

「まずはやってみよう!」
「もし失敗しても、またやり直せばいい」
「やらない後悔より、やる後悔だよ」

制止する声は叫ぶ。

「失敗したら恥ずかしいよ!」
「まわりの人に変に思われる」
「お金がなくなったら不安」

本当にやりたい気持ちが高ければ高いほど、アクセルを強く踏む。
ブレーキも同じぐらい強く踏むものだ。

だからこそ、内なる声は聞きっぱなしではダメだと思う。
制止する声にこう質問してみたらいい。

「失敗したら恥ずかしいよ!」
→恥ずかしい気持ちと、やってみて成し遂げた時の気持ち、どっちが大事?

「まわりの人に変に思われる」
→変に思われるからやめる程度ならやめたらいい。それでも後悔しない?

「お金がなくなったら不安」
→お金が十分にあれば何の不安もなく実行できるの?

内なる声は、無意識だ。

無意識に、自分を安全領域に留めようとするのは、生存本能と言ってもいい。

しかし、今は狩猟時代ではない。
制止する声を振り切っても、すぐに死なないのである。

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そもそも内なる声に語りかけたのは、安全領域から出たいからではないだろうか。

背中を押す声と制止する声は、絶妙なバランスを保つ。制止する声が大きいということは、それだけ本気である、推進力がある、ということだ。

だからこそ、内なる声(無意識)にただ従順に従うのではなく、対話しなければならない。

対話をせずに内なる声に従うこと。
それは博打であり、確率論だ。綱引きの決勝戦のように、二つの声が均衡して微差でどちらかに転ぶ。それはあまりに人任せ(内なる声任せ)ではないか。

内なる声に従うのではなく、従えるのだ。