「サバイバー」の起源をめぐる1972年発祥説の検討

はじめに

「サバイバー(survivor)」とは、「生存者」とか「生き残った人」を意味する英語の名詞です。しかし現在ではこの言葉は、特にトラウマ(心的外傷)という概念と結びつけて使用される場合、単に致死的な状況から生きのびた人をさすだけでなく、より広い意味を持つようになっています。

こうした文脈ではサバイバーは、性暴力・児童虐待・事故・自然災害などの様々な要因によってトラウマを負い、それに苦しみながらもなんとか生きのびている当事者たちによる名乗りの言葉として用いられます。

一例として、ドラマ化もされた『ミステリと言う勿れ』という人気漫画では、主人公の整くんがこのようなセリフを言っています。

“被害者”じゃなくて”サバイバー”だと 生き延びたんだと思えたら…いい

田村由美 『ミステリと言う勿れ⑧』小学館、2021年、131頁。

どういう会話の流れでこの発言が出てきたかは各自で作品を読んでいただくとして、ここでポイントとなるのは「“被害者”じゃなくて“サバイバー”」という表現です。

日本トラウマ・サバイバーズ・ユニオン(JUST)の用語集によれば、このように「被害者」と「サバイバー」を対置する考え方はもともとは英語圏から伝来したといいます。さらに、被害者とサバイバーの二項対立から発展して、トラウマからの回復過程はまず自分が被害者(victim)だと自覚することからはじまり、そこから抜け出せばサバイバー(survivor)になり、ついには自ら人生を盛んに生きる成功者スライバー(thriver)になっていくという段階モデルの理論もあるようです。

ここからわかるのは、トラウマを負った当事者が自分を悲惨な出来事の被害者だとみなすのか、それともサバイバーだと自覚するのかが重要視されていることです。別の言いかたをすれば、回復へと歩む当事者の自己物語のキーワードとしてサバイバーという言葉が大事な役割を果たしていると表現できます。

しかし、英語圏から伝播した文化なのは確かだとして、こうしたサバイバー概念はいつごろどのようにして考案されたのでしょうか。色々と文献にあたってみたところ参考となる証言がみつかりました。

■森田ゆり説=1972年発祥説とは

1992年に出版された『沈黙をやぶって』という本に以下のような一節があります。

一九七二年に出版された『女性という性奴隷』という本の中でキャサリン・ベリーが、自分の体験を語ることで、性暴力に対する社会全体の意識の変革に貢献してきた人たちを「生存者」と呼ぶことを提唱したのでした。以来、性暴力の分野全般では、彼らの勇気に対する敬意と感謝をこめた「サバイバー(生存者)」の語を使うことが一般化したのです。

森田ゆり『沈黙をやぶって』築地書館、1992年、240−241頁。

この書物は自らの性暴力被害体験を語った22人の女性たちの手記を集めたMeToo運動の先駆けともいうべき本であり、これを編纂した森田ゆりは性暴力被害者支援における日本の第一人者のひとりです。また、1980年代からアメリカで子どもへの暴力防止(CAP:Child  Assault Prevention)活動に携わり、日本にCAPプログラムを紹介した児童虐待防止活動のパイオニアでもあります。加えて、被害者支援や啓発活動と並行して、ヨガや瞑想を取りいれた心の傷の回復プログラムの普及にも尽力されているようです。

先ほど示した箇所は2021年の森田による編著『トラウマと共に生きる』でも自己引用されており、30年以上経った今も依然として有効な説であることがわかります。長きにわたってサバイバー支援の先頭に立ち続けてきた人物の証言として、これは有力な手がかりだと考えられるでしょう。おかげで『女性という性奴隷』という本を実際に確認してみることから、調査をはじめることができそうです。

■書誌情報の確認

まず、「一九七二年に出版された『女性という性奴隷』という本」とは、Kathleen Barryの“Female Sexual Slavery”のことだと思われます。ただし、この本は1972年ではなく1979年に出版されているので、出版年の情報については思い違いをされている可能性があります。“Female Sexual Slavery” は1984年にキャスリン・バリー著・田中和子訳『性の植民地 : 女の性は奪われている』という書名で翻訳が出版されています。よって本稿ではこれから先、当該書籍を『性の植民地』と呼ぶことにします。

そしてなんと『性の植民地』は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されており、IDを取得すれば以下のリンクから誰でもすぐに読むことができます。

■『性の植民地』の歴史的位置付け

キャスリン・バリーはアメリカの社会学者で、フェミニストです。『性の植民地』は強制売春につながる人身取引の実態を調査した研究書であり、バリーの最初の著書にして代表作といわれます。国境を超えた人身取引に国際的な関心を集める役割を果たした、記念碑的な書物という評価をされることもあります。本の出版から数年後、彼女は共同設立者として国連NGO「女性の人身売買に反対する連合」(The Coalition Against Trafficking in Women)を立ち上げることになります。

しかし『性の植民地』が糾弾するのは、ただ人身取引や強制売春だけにとどまりません。本人が回想するところによれば1967年から女性解放運動に参加し、性暴力に反対する活動に取り組んできたキャスリン・バリーは、第二波フェミニズムの影響を受けた多くの女性たちの一人でした。

「個人的なことは政治的なこと」のスローガンに共鳴したバリーは、女性の性的奴隷制は、「女性や少女たちが直接自分たちの存在に関わる状況を変えようのない状態、どうしてそうした状態にはまり込んだかという点に関わりなく、そこから脱け出せない状態、女性たちが性的暴力や搾取に従属させられている状態、以上のすべての状況に存在する」と述べます。[バリー1979=1984:49]つまり、その場所が売春宿であれ家庭であれ、女性が自分の意志によって逃れることや変えることのできない性的搾取の状況があれば、そこには性的奴隷制があるとみなすのです。

そして『性の植民地』の冒頭は、

性的奴隷制を生き抜いた女性たちと、それを生き抜こうと試みた女性たちへ

To the survivors of female sexual slavery, and to those who attempt to survive.

キャスリン・バリー『性の植民地 : 女の性は奪われている』田中和子訳、時事通信社、1984年。

という献辞で飾られており、まさにこの本は性的奴隷制のサバイバーたちに捧げられた一冊だと言えます。

さて、森田は自分の体験を語ることで性暴力に対する社会全体の意識の変革に貢献してきた人たちを生存者と呼ぶように、キャスリン・バリーが提唱したと書いていました。けれども実際に読んでみると、バリーが考える「性的奴隷制を生き抜いた女性たち(the survivors of female sexual slavery)」とは、どうもそれとは少し異なるもののように思われます。

本題に入る前に先に述べておくと、本稿の中心的なテーマのひとつであるキャスリン・バリーのサバイバー論は、時代を先取りした受容と包摂の証明であると同時に、ある種の抑圧のあらわれでもありました。現代からは矛盾しているようにもみえますが、この屈折を読み解くことで当事者と専門家・支援者との関係に今も存在する、普遍的な問題が明らかになります。

■『性の植民地』のサバイバー論

この本は大まかに言って理論、実証、提言の3部構成となっていますが、理論編となる第1部第3章では「被害者と生存者」という章タイトルのもとに、サバイバーとはなんたるかが説明されています。ここで展開されるキャスリン・バリーのサバイバー論の要諦は、私の理解では被害者主義(victimism)の否定にあります。

アメリカでは1960年代以降の新たなフェミニズム運動の興隆と共に、女性たちによって性暴力を告発する声が高まり、強姦法の改正運動などが行われました。こうした動きに合わせて、法律や警察の捜査のやり方なども徐々に変化し、性暴力にみまわれた女性の被害者への理解と共感も深まっていきます。しかし、そのかわりに今度は性暴力を受けた女性たちに「被害者」という固定化した役割や身分が課せられるようになってしまったのです。

言い換えるとこれは、「被害者」という言葉が喚起するイメージのおかげで性暴力が政治的な問題として真剣に受け止められるようになったものの、社会的に共有されたイメージが性的な被害を受けたかどうかの判断の基準のようになってしまったことを意味します。こうした判断基準のもとで、典型的な被害者イメージからは外れてしまうような女性たちが被害者とみなされなくなってしまう状況のことを、バリーは被害者主義と名づけて批判します。具体的には、自分に売春を強制してくるヒモに恋愛感情を抱いてしまい、表面的には共犯関係にあるように見えるケースが例として挙げられます。

さらに、一見して被害者らしくないように見える彼女たちがしているのは、生きのびようとする行為なのだとバリーは主張し、これが本書での生存者の定義に相当します。すなわち、「強姦されたり、性的に奴隷化された女性は、被害者である以上に生きのびようとしている人である。生きのびようとすることは、被害者であることのもう一つの側面である。」[バリー1979=1984:56]と述べられています。これにより、生存者とは被害者を別の角度から見た姿であると理解できます。

つまり、本当は被害者なのにそう見えないために周囲から被害者として認められない女性たちがいる。彼女たちは性的奴隷制の渦中で生き抜こうと必死にもがく生存者なのであり、偏狭な被害者イメージにあてはまらないからといって、彼女たちが被害に遭ったことを認めないのはダメだ、というのがキャスリン・バリーのサバイバー論です。

ゆえに、だからこそ本書ではパトリシア・ハーストが重要人物として取り上げられているのです。

■生存者パトリシア・ハースト

『性の植民地』第2部第7章は「パトリシア・ハースト:チャンスなどなかった」という個人名が冠された章タイトルになっており、この有名な誘拐事件被害者が遭遇した一連の出来事を詳しく記録し、論評することにあてられています。

パトリシア・ハーストはアメリカの新聞王ハースト一族の一員で、とても裕福な家庭で不自由なく育ちました。しかし彼女が19歳だった1974年2月4日、シンバイオニーズ解放軍(SLA)という左翼過激派によって誘拐されてしまいます。SLAは当初、身代金として貧困世帯に数百万ドル相当の食べ物を配るように要求していましたが、2か月後の1974年4月3日にハースト自身による肉声の録音テープが公開された時から事態は混迷していきます。

それというのも、公開されたテープでハーストはSLAの武力闘争へ自ら参加するという声明を出したのです。その約2週間後の4月15日には、宣言どおりにサンフランシスコのハイバーニア銀行をSLAと一緒になって襲撃します。監視カメラの映像には、彼女がライフル銃を構え、同志たちと銀行を襲う様子が映っていました。
それから1か月後の5月17日にFBIはSLAのアジトを急襲し、6名が射殺されますがその中にハーストはいませんでした。彼女は残党の2名と一緒に逃亡し、潜伏生活を送ります。ですが誘拐から1年7か月余りが経過した1975年9月18日、彼女はFBIによってサンフランシスコで逮捕され、銀行強盗の罪で裁判にかけられます。

誘拐直後こそ同情が寄せられたパトリシア・ハーストですが、SLAへ加入を表明した後にはありとあらゆる政治的ポジションの人々から反感を買って総スカンとなり、強盗と銃器使用の罪で可能となる上限の35年の刑期を言い渡されます。これはなんと彼女のことを誘拐したSLAの残党よりも長い刑期でした。しかし、のちに大幅に減刑され1979年2月に釈放されます。

以上がハースト誘拐事件のあらましですが、本書でキャスリン・バリーは一貫してパトリシア・ハーストを擁護し、彼女が経験したことこそ「女性の奴隷制の原型」[バリー1979=1984:146]であると言います。

法廷で弁護側は、ハーストが強盗に加わったのは洗脳やマインドコントロールによるものとする戦略をとるのですが、それもバリーは批判します。彼女はSLAによって誘拐され、監禁され、強姦され、そうしなければ殺すと脅されて従ったのであり、彼女を無実とする理由はそれで十分だからです。

女性が奴隷状態のもとで生きのびるためにした行為を、被害者らしくないという理由で責めるのは悪しき被害者主義にとらわれた見方であり、例えそれが間違った選択肢だったとしても、生きのびるための行動をした女性たちは被害者として認められなければならない。ハースト事件は様々な面で過剰ですが、この点でバリーの立場が揺らぐことはありません。

■『性の植民地』のサバイバー論の論理的帰結

ハースト事件に限っていうならば、バリーの意見はそう極端なものでもありません。実務的な観点からも情状酌量の程度問題と考えられることでしょう。また、逮捕後のハーストは武装闘争への参加も銀行強盗も、本当は自分の意思でやったことではなかったと証言したため、生存者とは一見すると被害者には見えづらい被害者であるという考えとも整合性はとれます。

バリーの被害者主義批判は、性暴力の被害にみまわれた瞬間やその前後の行動をいちいち詮索し、被害者がちゃんと被害者らしく見えるかどうかばかり気にする世間の風潮に対しては、とても有効な反論です。けれどもさらに一歩踏み込んで一般化してみると、このサバイバー論はなかなか悩ましい問題も抱えていることが見えてきます。

要点を先取りするならば、本当は被害者なのにそう見えないために被害者と認められない女性たちがいるという考えは、いともたやすく本人たち自身も気づいていないけれども本当は被害者である女性たちがいるという考えに横滑りしてしまうということです。

『性の植民地』が人身取引と強制売春を告発する書であることはすでに述べましたが、1979年に出版された本書では、「自営の職業的コールガールであれ、地位の高いアフリカ売春婦であれ、望むときにいつでも売春をやめることができる限り、女性が自由に売春に入ることに干渉すべきではない。」[バリー1979=1984:285]とバリーは言っています。本書の結論では売春の非犯罪化を求めるとともに、女性に対する性暴力の一形態であるポルノグラフィーを追放し、親密さに基礎をおいた新しい性的価値観を普及させることによって、女性を抑圧する性的奴隷制を葬り去ることが提言されます。[バリー1979=1984:213、273]

他方で、バリーのように売春を批判するフェミニストに対し、1980年代になると自立した成人同士の合意があれば性的サービスの売買は人権侵害ではないと考えるセックスワーク論という立場のフェミニストがあらわれ、1985年には「売春婦の権利に関する世界憲章」も採択されます。このような異論の出現が原因かどうか定かではありませんが、この後バリーはより急進的に売春廃絶を主張するようになります。

1995年に出版された『性の植民地』改訂版の“The Prostitution of Sexuality“の内容を紹介する論文等によれば、この本では女性を抑圧する構造が存在する中で同意か強制かについて議論することは、抑圧の維持につながるので問題があると述べられているといいます。[大野2010:34]さらに、売春は女性の精神的・肉体的健康に害を及ぼすと指摘し、売春婦が同意しているからといって売春を容認することは、人権侵害に対する同意はあり得ないという原則を無視することになると論じているということです。残念ながらこの本は日本語に翻訳されておらず、原文の確認もできていません。

セックスワーク論者が売春婦の自己決定を重んじるのに対し、彼女たちの同意の有効性を認めないバリーの思想は、サバイバー論にすでにその萌芽があります。そもそも生きのびようと試みる生存者の行動自体には、バリーは積極的な価値を見出していません。

そのことは「女性たちはさまざまな方法で生存と取り組む。それは、たいていの場合、行きあたりばったりであったり、疑わしい決定であったり、決定をせず、あとに問題を残すことであったりする。ときに決定が効果的なこともあるが、たいていの場合、役立たずであることが多い。」[バリー1979=1984:58]というような記述にも明らかです。確かにパトリシア・ハーストが生存のためにした行為が銀行強盗への協力だったことを思いおこせば、擁護はできても肯定するのは難しいのかもしれません。総じて生存者が生きのびるためにとる手段に対するバリーの評価とは、性的に奴隷化された女性の順応化の反応だったとまとめられるでしょう。

以上、『性の植民地』からサバイバーに関係する箇所を抜粋して検討してきました。確かに本書では、男性優位社会の下で抑圧され性的に搾取される女性たちを生存者と呼ぶことが1979年の時点で提唱されており、サバイバー概念の源流として有力な候補だと考えられます。けれども実際に内容にまで立ち入って読んでみると、1992年に出版された本の中で勇気を出して自分の性暴力被害体験を語った人たちを生存者と呼ぶ、として紹介した森田説との違いが際立ちます。ちょうど1980年代を間に挟んだ両者の見解のずれは、単なる思い違いの結果というよりも、概念が変化していく過程のようにも思われます。

『性の植民地』の刊行より少し時をさかのぼって、1960年代後半にそれまで白日の下にさらされることのなかった性暴力の問題が可視化されていった現場は、コンシャスネス・レイジング(意識向上)運動と呼ばれる、女性たちが集まり合って互いの経験を語り合う環境でした。また、1971年にはニューヨークでレイプ被害のスピークアウト(公開報告会)がフェミニストにより開かれています。こうした歴史的背景を考慮すると、性暴力の被害者を生存者と呼ぶことと、性暴力被害の体験を語ることで社会全体の意識の変革に貢献しようとする人を生存者と呼ぶこととの間には、かなり密接な関係があると推測できます。ただ、前者から後者への変遷を正確にトレースするには、フェミニズム運動史についてのより緻密な知識が要求されるでしょう。

しかしながら、1992年刊行の『沈黙をやぶって』に記されていたような、性暴力被害の体験を語る女性の勇気に敬意と感謝をこめて「サバイバー」の語を使うという慣習については、この当時すでに専門家や支援者の間に浸透していたことを示唆する事実があります。当事者が、自らの経験した出来事を公衆の面前で語って社会へ貢献することを生存者使命(survivor’s mission)と表現した、ある有名な本が同じ年に出版されているのです。それがトラウマ研究の古典である、ジュディス・ハーマンの『心的外傷と回復』です。

■トラウマ概念との接続:ハーマン『心的外傷と回復』

トラウマという概念が日本に普及するにあたり、1995年1月17日の阪神淡路大震災は決定的な出来事でした。震度7の都市直下型地震という未曾有の大災害のすぐ後から、被災者への物質的援助だけでなく精神的援助の必要性を指摘する声が上がり、実際に多くの精神科医や臨床心理士が現地で被災者の心のケアにあたりました。

神戸大学の教授であった精神科医の中井久夫は、自らも被災者でありながら兵庫に設立された心のケアセンターのセンター長の任を務め、被災者の支援に尽力しました。その奮闘の日々の中で『心的外傷と回復』と出会い、本書はこの碩学の手によって翻訳され1996年に日本で出版されます。日本語版に所収された中井による訳語ノートには、翻訳する際にどのような判断で訳語を選んだのか裏話が記されています。この文章にはサバイバーについての重要な情報が詰まっているので、少し長くなりますが引用します。

 まず、頻繁に出てくるvictimとsurvivorであるが、前者は一般語としては「犠牲(者)」であるけれども、被害者学の定訳に従って「被害者」とした。ただし、「犠牲」になっていることが強調されているはずで、そうあるべき二、三の個所は「犠牲者」とした。
 後者は、わが国の被害者学では「サヴァイヴァー(サバイバー)」とするのが一般であるようである。しかし、これほどの頻度で出てくるものには訳をつけねばならない。原語でも、Oxford English DictionaryのNew Edition (1991)によれば、「心的外傷後に生き残った者」の意味では、初出は一九六八年という新しさで、本書に出てくる研究者ニーダーランドの一文が引いてある。なお、『広辞苑第四版』(一九九一年)には「サバイバル」の語はあるが「サバイバー」はない。そこで、文脈に応じて八割は「被害経験者」か「生存者」のいずれかを採った。ホロコーストなどに「被害経験者」の訳は「生存者」ほどしっくりしないと思われる。時に「被害者」とあるのは、被害から時計時間・心理時間のいずれもあまり経過していない場合であり、「被害経験者」とあるのは被害から時間が経っている場合に充てた。稀に強調的に「その後を生きる者」とした。「児童虐待経験者」もそういう意味で、その人が今大人になっている場合である。子どもの場合は「被虐待児」である。これらをもし統一するなら「生存者」であろう。著者ハーマンは回復の過程を「被害者victim」→「患者patient」→「生存者survivor」としている。特に「生存者罪悪感」「生存者使命」は「生存者」でなくてはなるまい。

ジュディス・L・ハーマン『心的外傷と回復(増補新版)』中井久夫・阿部大樹訳、みすず書房、2023年、417ー418頁。

中井久夫は精神医学の権威であり、広範な知識を持った一流の文化人でもありました。それでも『心的外傷と回復』を翻訳するうえでは見慣れない語が多かったと苦労を語っています。この感想はあながち謙遜ではなく事実だったでしょう。というのもこの本は、かなり明確にフェミニズムの視点から書かれた本だからです。引用した文章からは、なかでもvictimとsurvivorの訳語に悩んだ形跡が見てとれます。

中井はトラウマからの回復プロセスがvictim→patient→survivorという段階を経て進むというハーマンの理論に言及しています。しかし同時に、原文のsurvivorを文脈に応じて「被害経験者」や「その後を生きるもの」などに訳し分けたとも言っています。なぜ訳語を変化させた方が良いと中井が判断したかといえば、実際のところハーマンが本文でsurvivorという言葉を複数の意味で使用しているからに他なりません。そして『心的外傷と回復』に登場するsurvivorにどんな重層的な意味が込められているのか理解するには、前史として精神医学分野におけるサバイバーとは誰だったのか見ておく必要があります。

■精神医学におけるサバイバー:DSM-Ⅲの段階

引用した訳語ノートで紹介される、1968年に「心的外傷後に生き残った者」という意味でサバイバーを最初に使用したウィリアム・ニーダーランドの研究は、ナチ・ホロコーストの生存者調査でした。この論文は「生存者症候群(Survivor Syndrome)」と呼ぶしかないような重症で多岐にわたる症状が、ホロコーストの生存者に見られることを報告するものです。つまりこの時点ではサバイバーは文字通り「致死的状況を生きのびた人」の意味で使われています。

ニーダーランドの論文から12年後の1980年に、サバイバーとトラウマとの結びつきを不動のものにする出来事が起きます。PTSD(心的外傷後ストレス障害)のDSM-Ⅲへの採用です。DSMとはアメリカ精神医学会が発行する診断統計マニュアルのことで、1980年に発行された第三版のことをDSM-Ⅲといいます。この版で PTSDがひとつの疾患として確立したのには、ベトナム戦争の帰還兵たちによる社会運動が深く関係していました。

1973年3月にアメリカはベトナム戦争から撤退しますが、すでに国内は戦場から帰ってきたものの精神的な問題を抱えて苦しむ帰還兵たちで溢れていました。こうしたベトナム帰還兵たちはおしゃべりグループという一種の自助グループをつくり、自分たちの戦争体験を語り合うとともに、次第に集団として政府に働きかけをするようになります。彼らの運動の中身は大きく分けると反戦運動と戦争の心理的後遺症への補償の要求の2つでした。

政府へ補償を要求するためには、帰還兵たちが精神的症状を抱えていることと、それらの症状が戦地での「外傷的出来事」に起因するものであることが認められなければなりません。そのために帰還兵たちのグループは専門家である精神科医の助けを求めます。こうした声に呼応してアメリカ精神医学会はPTSDという疾病を診断基準としてDSM-Ⅲに加え、ついには政府や軍が補償の対象として公的に認めることとなったのです。

DSM-ⅢのPTSDの項で「サバイバー(survivor)」について言及している箇所は全部で3つあり、1つはサバイバーズ・ギルト(生存者罪責感)についての説明、残り2つは絶滅収容所の生存者という意味で使用されています。前者についてはPTSDという疾病の成立に貢献した精神科医のロバート・リフトンの存在が大きいでしょう。リフトンは1962年に広島に滞在して被爆者たちにインタビュー調査を行い、原爆で多くの人が死んだのに自分が生きのびたことや、生存のために自分がした行為について、つらい罪悪感を抱えている人たちがいることを発見しました。[高村2018:77]

つまり1980年の段階において精神医学がサバイバーという言葉で指していたのは、具体的に挙げればヒロシマ、アウシュビッツ、ベトナムのジャングルで生き残った人たちのことでした。これはDSM-ⅢがPTSDの原因となる外傷的出来事を、「通常の人間的経験の範囲を超えたもの」と定義していたこととも合致しています。

1992年に出版された『心的外傷と回復』でジュディス・ハーマンが目標としていたのは、このような「外傷的出来事」についての意識を根底からくつがえすことでした。彼女は「レイプ、殴打などの性的暴力、家庭内暴力はいたるところにあるもので、女性の人生の一部となっており、通常の経験の範囲外などというのはとんでもない話」[ハーマン1992=2023:48]だと抗議します。ハーマンがsurvivorという語を複数の意味で使っているのには、PTSDという疾患概念が徐々に確立していく時期のこうした事情が背景にあったことでしょう。

■ 『心的外傷と回復』のsurvivor

述べたように、PTSDという疾患の成立にはベトナム帰還兵が深く関わっていましたが、ハーマンは性暴力やDVに起因する症状も戦争や絶滅収容所に由来する症状と同じPTSDであることを示すため、どちらの患者もsurvivorと呼びます。さらに戦闘やレイプといった一回性のトラウマよりも、児童虐待のような長期反復性のトラウマの方がより深刻かつ多様な症状のPTSDをもたらすことを強調するためにも、survivorという語を用いています。こうした意図は著者自身が次のように明らかにしています。

『心的外傷と回復』は性的および家族的暴力の被害者を相手とする臨床および研究の二十年間の果実である。(中略)本書は、レイプ後生存者と戦闘参加帰還兵との、被殴打女性と政治犯と、多数の民族を支配した暴君が生み出した強制収容所の生存者と自己の家庭を支配する暴君が生み出す隠れた小強制収容所の生存者との共通点についての本である。

ジュディス・L・ハーマン『心的外傷と回復(増補新版)』中井久夫・阿部大樹訳、みすず書房、2023年、3頁。

なお女性の従属的地位は男性のひそかな暴力によって押しつけられ維持されている。両性間で戦争が行われているということである。レイプ被害者、被殴打女性、性的被虐待児は戦死傷者である。ヒステリーは性の戦争における戦闘神経症である。

ジュディス・L・ハーマン『心的外傷と回復(増補新版)』中井久夫・阿部大樹訳、みすず書房、2023年、46頁。

それだけでなく、『心的外傷と回復』には「回復の物語」の主体としてのsurvivorが登場します。本書の第二部では、トラウマからの回復の道筋は「心身の安全の確保・想起と服喪追悼ふくもついとう・コミュニティへの再結合」という3つの段階を経ながら進むことが語られますが、3番目の「再結合」の段階において、患者は自らのアイデンティティをvictimからsurvivorへと変化させると言われています。引用した訳語ノートで「著者ハーマンは回復の過程を「被害者victim」→「患者patient」→「生存者survivor」としている。」と触れられていた用法です。

生存者が〈犠牲者である〉というアイデンティティ(自己規定)を捨てるにつれて、これまでおおよそ自分の持ち前であると思ってきた自己の一部を放棄することを選ぶようになってもふしぎではない。

ジュディス・L・ハーマン『心的外傷と回復(増補新版)』中井久夫・阿部大樹訳、みすず書房、2023年、305頁。

回復のこの段階においては、生存者はしばしばプライドが新しく生まれ直した感じを持つ。 健康な自己讃嘆は時に被害者たちにみられる、自分は特別だという誇大的な感覚とは別ものである。 被害者の特別感は自己嫌悪と無価値感との埋め合せである。

ジュディス・L・ハーマン『心的外傷と回復(増補新版)』中井久夫・阿部大樹訳、みすず書房、2023年、307頁。

以上をまとめるならば、『心的外傷と回復』に出てくるsurvivorは、大きく分けると次の3つの意味の混合物だと言えるでしょう。まず①戦争やホロコーストなどを生き残ったsurvivor、それから②性暴力とDV、性的虐待を含む児童虐待の被害当事者であるsurvivor、最後に③トラウマからの回復の道筋を自ら歩む主体としてのsurvivorです。

中井久夫が「被害経験者」(e.g. 142頁)や「(ある近親姦の)後を生きる女性」(e.g. 195頁)と翻訳で区別したものの多くは②の意味のsurvivorであり、①と③はおおむね生存者と訳されています。『心的外傷と回復』は2023年に版を新たにされ、2篇の論考を増補して出版されました。2022年に中井久夫が亡くなったこともあり本文の訳は以前の版と変わりがないですが、本書に出てくるsurvivorは全てサバイバーと置換した方が、現在ではむしろ分かりやすいかもしれません。1996年の時点で中井が生存者と直訳するのをためらった性暴力被害当事者という意味でのsurvivorが、2023年においてはサバイバーという言葉の第一義のようになっていることは、この間の社会全体の意識の変化を反映しているようでもあります。

■生存者使命(survivor’s mission)

このように、本書のsurvivorは重層的な意味を持っていることを前提にしつつ、生存者使命についての説明に目を通してみましょう。私見ですがこの章節は本書の中で、もっともフェミニズムらしい箇所です。次のような書き出しからはじまります。

生存者使命を発見する

 生存者の大部分は個人生活の範囲内で外傷体験の解消を図る。しかし少数ではあるが重要なのは、外傷の結果、より広い世界にかかわる使命を授けられたと感じる人々がいる。このような生存者はみずからの不運の中に政治的あるいは宗教的次元を認識し、おのれの個人的悲劇を社会的行動の基礎とすることによってその意味を変換できることに気がつく。

ジュディス・L・ハーマン『心的外傷と回復(増補新版)』中井久夫・阿部大樹訳、みすず書房、2023年、312頁。

ここで使命と訳されるmissionという英語は、原義ではイエズス会による海外布教を指し、現代では「もっている知識を伝えにいくこと」が中心的な語義だと、本書のもう一人の訳者である阿部大樹は注釈しています。[阿部2023:187]この解説のとおり、ハーマンは生存者使命の根幹をなすのは「公衆の面前で真実を語るということ」「公衆の面前で語りえないことを語ろうとする[こと:引用者注]」[ハーマン1992=2023:314]と位置付けていて、それはとりもなおさず、生存者が自らの心的外傷体験について語ることを意味します。

公の場で被害体験を語ることが重んじられる理由は、回復の第三段階が「コミュニティとの再結合」と定められていることと関係しています。心的外傷体験の核心は孤立と無援だとハーマンは言います。被害者はトラウマを負った時に社会から切り離されたように感じ、周囲に理解されないがゆえの孤独感を味わいます。回復のステップを最終段階まで進むことによって、被害者は人と人とのつながりに復帰することを望むようになりますが、この際に自らの体験した残虐な出来事を他者のための贈り物とすることで、社会との結びつきをより強固にすることができると本書では語られます。

生存者によって話される内容はその人が経験した外傷的事件に依存するため、必ずしも性暴力に限定されません。けれども、ハーマンの生存者使命の定義は、性暴力の被害者を生存者と呼ぶことから転じて、性暴力被害の体験を語ることで社会全体の意識の変革に貢献する人を生存者と呼ぶこととなった、90年代初めのフェミニズムにおける生存者観と基本的な部分で一致すると言えるでしょう。

生存者たちが社会行動を起こす時には、その人が遭遇した外傷的出来事について、社会問題として取り組んできたコミュニティを経路にすることがしばしばだと考えられます。実際にあった例として、ハーマンは検事としてDV事件を担当するDV被害当事者や、ホームレスの帰還兵の社会復帰を支援するベトナム帰還兵の逸話を紹介しています。性暴力やDV被害者の場合、フェミニストだけが支援を担ってきた時代がずっと長い間続いていました。この章節全体のフェミニズムらしさは、生存者が再び社会に統合され、包摂される際の入り口となるコミュニティの反映でもあるのかもしれません。

■フェミニズムの言葉としてのサバイバー

本稿は冒頭で、トラウマを負った当事者がアイデンティティの言葉としてサバイバーを用いるようになったルーツを探るという目標を立てました。そこでまず最初の手がかりとして1972年発祥説を検討しましたが、実際にはそれは1979年に出版された本でした。そうするとジュディス・ハーマンの最初の著作である『父-娘 近親姦』に書かれた次のエピソードのほうが時期的に先んじている可能性が高くなります。ここでは、幼いころに父親から受けた性的虐待被害を公にしたルイズ・アームストロングの、被害者ではなくサバイバーと呼んでほしいという思いが記されています。アームストロングはそれまでに『レモンをお金にかえる法』などの経済の仕組みをテーマにした子ども向けノンフィクションを執筆していた作家ですが、1978年に近親姦サバイバーの女性たちの証言を集めた“Kiss Daddy Goodnight“という本を編纂して上梓しました。[ハーマン1981=2000:40]断言はできませんが、調査の結果ルイズ・アームストロングのこの発言が、アイデンティティの言葉としてのサバイバーの起源である可能性が高くなったと思われます。(2008年に彼女が亡くなった時の追悼記事はこちら

この暫定的な結論に加えて、本稿で1972年説を検討した副次的な成果もありました。それは当事者自身が自らのことをサバイバーだと自認する文化と並行して、支援者たちが性暴力の被害当事者のことを指す言葉としてサバイバーを用いていた事実を確認できたことです。換言すると、当事者の自己認識の言葉とは似て非なるフェミニズムの言葉としてのサバイバーという系譜の存在を明らかにできました。

ここまで見てきたことをフェミニズムの言葉としての側面に注意しながら捉え直してみましょう。まず、『性の植民地』では性的奴隷制の下で生きのびようとする女性は生存者だというテーゼが打ち出されました。これには、それまで被害者扱いをされなかった女性の被害を社会に認知させる目的があったと先ほど述べました。

しかし性暴力の被害者について定型的なイメージが社会に浸透したのは、そこに至るまでフェミニストにより行われた反性暴力運動の成果でもあったはずです。だとすれば少し視点を変えると、生存者と名づけた女性たちも被害者と認識するべきだという提案は、それまでの運動の軌道修正と見ることもできます。同時に、仲間のフェミニストたちや支援活動家たちに向けた、被害者らしくない女性たちでも運動から排除するのはやめようという呼びかけでもあったでしょう。それは以下のような記述にうかがえます。

被害者主義は、必ずしも被害者によって求められた役割ではなく、むしろ、その体験を判断する側にいる人たちによって被害者に課せられた身分である。私は、性差別主義のバイアスで女性を判断する人びとのみでなく、一見、被害者の苦境を案じ、支援しているように見える人びとの多くをも含めて言っているのである。たとえ支援者であっても、被害者主義の判断に立って女性を拘束することがしばしばある。

キャスリン・バリー『性の植民地 : 女の性は奪われている』田中和子訳、時事通信社、1984年、55頁。

善意の人びとによる被害者主義の押しつけも、女性が被害者であることを頭から否定する性差別主義者の行為と同様、被害者にとっては抑圧的で破壊的なものとなる。

キャスリン・バリー『性の植民地 : 女の性は奪われている』田中和子訳、時事通信社、1984年、59頁。

キャスリン・バリーは支援者たちに向けて、被害にあった女性たちに被害者らしさを押し付けることがないように戒めます。ですが、そのために考案された生存者という新たな枠組みにも、別の種類のパターナリズムが潜んでいたことはセックスワーク論との対立のところで述べたとおりです。生存のための手段についてバリーは、次のように言っています。

女性を生きのびようとする者と認めるだけではなお不十分である。生きのびることと効果的に生きのびることとは異なるものだ。効果的に生きのびるためには、性的暴力の深刻な脅威に女性が団結してあたり、それに対して組織化されることが必要となる。多数の女性が強姦や他の形での性的暴力に反対して組織化されつつあることは、希望の表明であり、効果的な生存への前進である。

キャスリン・バリー『性の植民地 : 女の性は奪われている』田中和子訳、時事通信社、1984年、59頁。

バリーは生存者をただ生存者だという理由で褒め称えているわけではなく、効果的に生きのびるには生存者たちも運動に参加し、他の女性たちと団結する必要があると論じます。こうした政治性を考慮に入れて、フェミニストからの呼びかけという視座から『性の植民地』を読むと、サバイバーという言葉の成り立ちは、それまで被害者として認知されてこなかったタイプの被害当事者の女性たちを運動に包摂する言葉としてはじまったと見ることもできます。このようにして反性暴力運動へと迎えいれられた当事者に期待された事柄とは、「自分の体験を語ることで性暴力に対する社会全体の意識の変革に貢献すること」だったのは想像に難くありません。

ハーマンの『心的外傷と回復』における生存者使命に関する記述も、使命に目覚めるのは少数の生存者に限るという条件こそ付けられていますが、生存者たちに性暴力被害の現実を公衆の面前で勇敢に語るように後押しする効果があったことでしょう。被害者たちがあげた声によって性暴力が社会的な問題として認知されるようになった歴史を踏まえると、これらも反性暴力運動が成し遂げてきた功績の一部という評価が大勢の意見だと思われます。

しかしながら、長い運動の歴史の中で支援する側と支援される側との利害の衝突がなかったわけではありません。このような時に、サバイバーを自称する行為は、当事者たち自身によって政治的な意味合いを込めてなされることがありました。

■定義しなおす当事者

アメリカの大学で教員からの性加害にあったセクハラ被害当事者の高橋りりすは、自著の『サバイバー・フェミニズム』に「サバイバーよ、勇気を出すな」という詩を所収しています。この詩で高橋は、シンポジウムなどで被害体験をカムアウトするようにとか、裁判を起こすように支援者から呼びかけられるサバイバーに、そんなことをする必要はないとうったえかけた上で次のように言っています。「あなたは、生きてこうしてここにいる。これ以上の勇気があるだろうか。」[高橋2001:209]

この詩には、公の場で性暴力被害体験を語ることや反性暴力運動の重要性を否定する意図はありません。ここで表現されているのは、支援者と当事者との「支援する者/される者」という不均衡な関係から生じる問題です。具体的にいうと、自分の体験を語ることで性暴力に対する社会全体の意識の変革に貢献しようとする人がサバイバーである、というような支援者側の言説によって、当事者に役割が押し付けられることの不当さです。この詩はそれに抗議するため、そのようなことをしなくてもサバイバーはサバイバーだと、あえて言い切っています。どのように行動するかの決定権は被害者自身にあるというアピールとして、高橋は「私が「サバイバー」という言葉を使って主張したかったのは、「私の問題に私を関わらせろ」という単純なことだったのだ。」と述べています。[高橋2001:203]

もっとも、支援者たちが自分たちの権力性に全くの無自覚だったと考えるのも一面的にすぎる見方でしょう。当事者の声を代弁することの困難や、支援者側の価値観を押し付けることの問題などについて自己批判的に語られることも、ないことはありません。しかし、当事者の側から支援者や専門家に向けられた批判が公になるのは非常に稀なことです。その数少ない例のひとつが、2005年の『女性学年報』に掲載されたマツウラマムコによる論文「「二次被害」は終わらない——「支援者」による被害者への暴力」です。

マツウラは論文の冒頭で、自分はサバイバーであることをアイデンティティとしているが、あえて被害者として語ると述べます。この論文の重要な点は、自らのポジショナリティを被害者と宣言した上で、被害者と加害者以外の全ての人々を「第三者」と規定したことにあります。そうして語られた論文の内容は、無数の「第三者」たちの中でも被害者と距離が近く、一見すると被害者に寄り添って支援をしているように思われている支援者によって、多くの被害者が傷つけられているというものです。

支援とは本質的に上下関係を含んでおり、ある種の支援者がする行為は支援というよりも支配と呼ぶのが相応しいとマツウラは言います。さらに支援者は「支援する者」という自分たちのアイデンティティのために「支援される者」の存在を必要としており、「脅す」「あぶりだして呼び寄せる」「支援/支配する」という方法を駆使して被害者をコントロールし、支援という名のもとに支配を行っていると主張します。例えば、キャスリン・バリーと同じような考えの支援者により、被害者が性産業から離れないことを理由に支援対象から外されることなども含まれるかもしれません。

マツウラ論文は当事者からの痛烈な支援者批判であり、そのまま受け入れるのは難しいようなところもあります。しかし、その鋭利さゆえに支援活動という営みに必ずつきまとう加害性を抉り出すことに成功しています。そしてそれは支援活動に限らず、どんな社会運動にも必然的についてまわる根源的な暴力性に通じるものです。マツウラは加害者でも被害者でもない全ての人を指す「第三者」について、こう言います。

「第三者」たちは被害者のおかげで自分たちは「異常なところのないもの」つまり暴力という不幸な目にあわない「まともな普通の人間」であるとの地位を「何もせずに」手に入れているといえる。つまり「第三者」は被害者を「被害者」と名づけることで、被害者でない自分たちを「普通の人」としている。まさに鄭暎惠が「他者に何者であるかのレッテルを貼る名前をつける行為、その行為から既に差別は始まっている。他者を分類し、名前を付けていくことで、自己に普遍の位置を与えることが可能となる」(鄭 二〇〇三、十九頁)というように、「第三者」が被害者という「他者」に被害者であると名前をつけるという行為から差別は始まっており、その結果自分たちに「普遍」、つまり「まともな普通の人間」との位置を与えているのだ。

マツウラマムコ「「二次被害」は終わらない—「支援者」による被害者への暴力—」『女性学年報』第26号、2005年、106頁。

圧倒的なマジョリティである「第三者」と被害者との社会的権力関係は、被害者が被害者として名づけられる立場となった時点ですでに決着がついていて、あとは「第三者」の中から支援者が被害者に近づいていき、被害者について解説したり代弁したりといった振る舞いで被害者を服従させ、支配していくことになります。

マツウラ論文が指摘する支援者の暴力とは、ある面で避けがたい側面もあります。なぜかというと支援者にも能力の限界や活動をはじめた動機などの都合があり、それに合わせて支援対象者を画一化せざるを得ないからです。これが彼らの当事者に対する加害性につながっています。勇気を出して加害者を告発してこそサバイバーだと鼓舞する言説も当事者を画一化する動きの一事例であり、そうした支配に抵抗しようとしたのが「サバイバーよ、勇気を出すな」という詩だったと言えるでしょう。

このような支援者と当事者の間で発生する理想のサバイバー像をめぐる政治は難しい問題ですが、次に取り上げるエピソードが示すように、時間が解決する可能性もあるかもしれません。

■当事者は多様で複雑という当たり前の事実

2022年に出版された『当事者は嘘をつく』という本の中で、哲学者の小松原織香は過去に性暴力被害に遭ったことをカミングアウトし、修復的司法の研究の道に進んだ背景に被害体験があったことを明らかにしました。修復的司法とは、司法が最優先の目標とするべきは被害者の回復と癒しだとする考えのことで、その手段のひとつとして加害者の改心と被害者の赦しによる和解の成立を模索します。この著書で小松原はジュディス・ハーマンを自身の研究の最大の仮想敵と表現し、『心的外傷と回復』との対決の中から赦しについて独自の問いを見い出し、研究の糧としたことを語っています。

他方でこの本には、被害者の権利運動と連動した犯罪者に厳罰を求める嘆願運動や、性暴力加害者を告発して責任を追求することが優先されるムーブメントの中で、一人のサバイバーとして感じた葛藤が率直に綴られています。著者自身も含めて、当時から修復的司法のような方向性で加害者との対話を求める当事者は確かに存在したものの、そうした意見は目立たない少数派だったからです。

実は今年の3月にみすず書房からジュディス・ハーマンの新著の日本語訳が発行されることが予告されています。『心的外傷と回復』から30年越しに発表された新著『真実と修復』は、サバイバーが求める社会的公正を実現するには現行の刑事司法制度では不十分だと論じ、オルタナティブとしての修復的司法やダイバージョン裁判の実践についても取り上げており、精神医学の領域から越境する意欲的な著作と見られます。[阿部2023:185−186]ハーマンを仮想敵として修復的司法の研究に取り組んできた『当事者は嘘をつく』の著者がこの新著にどのように反応するのか、読者の一人として興味が湧きます。それと共に、ハーマンの議論が日本社会にどう受け止められるかも気になるところです。

もちろん、ハーマンの新著の登場によって一気に被害者と加害者との対話や和解の方向性に舵が切られるようなことは可能性が低いでしょう。それに万が一そんなことになれば、それは今までとは逆の方向で当事者を型に押し込めることになります。加害者への厳罰を求めるような当事者もこれまで通りいることを前提として、そうでない当事者の存在にももっと光が当たるようになるかもしれない、というところが穏当な見通しでしょう。社会運動は当事者を画一化せざるを得ませんが、状況が変化すれば多様で複雑な当事者の別の側面にも目が向けられることもあります。希望を与える前向きな事例として、『真実と修復』の出版は歓迎できる出来事なのではないかと思われます。

おわりに

本稿の調査によって、PTSDという疾患概念が確立するよりも少し前から、性的暴力の被害者のことを生存者と呼ぶ文化がフェミニズムに存在したことを確認できました。この文化がどれほどジュディス・ハーマンに影響を及ぼしたかについては今後の研究を期待したいですが、PTSDという疾患の核心である「死の危険に直面したサバイバーはトラウマを負う」という認識から、「トラウマを抱えながらも生き抜いている人はサバイバーである」という認識への転換は、このフェミニストの精神科医によってひっそりと行われた革命だったと言えるかもしれません。

ですがこの転回によって、逆説的にサバイバーという言葉は自死と深く連関する言葉になりました。最近はトラウマという概念の拡大と拡散に伴って、多種多様な〇〇サバイバーという表現を目にするようになった気がしますが、私はこの言葉が多用される風潮にはなんとなく身構えるような気持ちがあります。けれども同時に、人生で辛い時期を経験した人が、後から振り返って自分はあの時期を生き抜いたのだという実感を込めてサバイバーと名乗ることには深いエンパシーを抱いています。

どんな言葉でも濫用されると本来持っていた意味を失ってしまいます。けれども、ある言葉の使われかたが濫用かどうか議論すること自体に政治的な意味合いが含まれるので、濫用を防ごうとする試みは失敗に終わることがよくあります。このような闘争は最近「ホロコースト」という重い歴史的負荷のかかった言葉をめぐっても起こりました。アイデンティティに関わる言葉では、この政治の複雑さは輪をかけて入り組んだものになります。

サバイバーという言葉をめぐる支援者と当事者の政治は、他のアイデンティティに関わる言葉の政治にも参考になる視点を提供しています。社会運動として理想を掲げていても、個人の多様な生を塗りつぶすような言説は批判されて当然でしょう。私はこうした考えを自らサバイバーを名乗った人々から学ぶことができました。生きのびるという偉業を成した先人たちの歩みに心からの敬意を払い、感謝と共にここで筆を擱くこととします。


本稿の構成と読みやすさに関して貴重なアドバイスを提供してくださった浅山太一さんに心からの感謝を申し上げます。ただし、議論が正確かどうかについての確認は行われておらず、本稿の内容と結論については全ての責任を私が負うものです。

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森田ゆり『トラウマと共に生きるー性暴力サバイバーと夫たち+回復の最前線』築地書館、2021年。

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