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SNSに本当の充実は映らない

今から5、6年前。僕はFacebookとInstagramを中心にSNSにガッツリはまっていた時期がある。
どこにいってもパシャっと写真を撮ってはSNSにアップロードする。
イイネを集めること」が目的で、「遊び」が手段になっていた。
そんな中、写真を撮ることを忘れてしまうことが何度かあって。
それは没頭してしまうくらい楽しい思い出だったのだけど、SNS的には投稿としての面白みに欠け、イイネの数が少ない結果となっていた。

逆に楽しそうにしている写真と充実したテキストを伴った投稿はイイネの数を増やすことができたのだけど、思い出としては気疲れした記憶だったり、あまり良い印象のない思い出になっていた。

うーん、なんか微妙だ。

ちょうどこの頃「リア充」という言葉がよく使われていたこともあり、「本当の意味でのリアルの充実とは何なのか」についてよく考えていた。

人生を相対的と捉えるか、絶対的と捉えるか

ある時、ボランティア活動で知り合った某大企業の役職者と飲みに行ったとき、「結局、人生は相対的なものだよ」と言っていた。
彼曰く、生き方には絶対的なものさしと相対的なものさしがあるという。
そして彼は周りと比べて優れているか、否か。それによってのみ人は幸せを感じることができると言った。
なるほど、彼は世間的にも認知されている大企業に勤め、立派な役職もついている。 確かにその考え方に基づいた生き方をしている、と納得がいった。
そして彼のSNSはいつもキラキラしていた

でも僕は実体験からこう思う。

「本当にこの人は充実しているのだろうか?」

彼を否定しているわけではないけれど、人生を相対的だと言い切る人のSNSの投稿に正直、納得感が持てなかった。

もっというと、その相対的だという考え方は時代によって作られたものではないだろうか。能力や個人の幸せの指標が多元化、多様化している今の時代において、相対的なものさしが正しいとはどうも考えにくい。
ビジネスにおいても、WHYにあたるビジョンの必要性が今後増していくわけで、それは絶対的なものさしが必要になるということを表すのではないだろうか。「人生は相対的」と彼は自分の考えのように言っていたのだけど、結局彼は時代にそう言わされていただけなのではないだろうか。

絶対的に生きたい

ビジョンというのは非合理なものだ。それは論理を超えたところにある。
(そのビジョンを実現する手段については、とことん合理的になる必要はあるとは思うけれど)

周りがどうとかSNSでどれくらいのイイネをもらえるか等について考えてる暇がないくらい、没頭して自分のビジョンを追い求めた生き方こそ、「本当の充実」した人生なのではないだろうか。

僕は絶対的なものさしで生きたいし、SNSに映らない本当の充実が欲しい。

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