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『ダブドリ Vol.19』インタビュー01 ニック・ファジーカス(川崎ブレイブサンダース)

2024年2月9日刊行の『ダブドリ Vol.19』(株式会社ダブドリ)より、表紙&巻頭インタビュー冒頭を無料公開します。

川崎でトップを走り続けてきたファジーカスが引退。日本バスケ界、そして日本代表にもたらした奇跡の8連勝。その全てが衝撃的だった彼のキャリアに踏み込む。(取材日:11月21日)

[ Interview by 大西玲央/Photo by 石川元 ]

玲央 シーズンが始まる前に引退すると発表した上でプレーしていますが、心情的にこれまでと違った部分などは?
ニック このあいだ大阪でプレーした時、「ありがとうニック」と掲げてくれているファンがいたり、試合前にも会場でアナウンスを入れたりしてくれてね、そういうのはもちろんいつもと違うなと感じたよ。でも基本的には「これが大阪とやるのは最後だな」とかそういう感情はなく、とにかく今季が特別なものになるように全力を尽くしている。B.LEAGUEでの年間優勝はまだないから、これで最後だけどそこはやはり目標としている。本当に長くプレーしていたからこそ、これが最後だなっていう実感はまだないんだ。もしかしたら終わった瞬間にもそういった感情は込み上げてこないのかもしれない。もちろんもうプロでやらないんだという気持ちにはなるかもしれない。でも感傷的になるタイミングがいつかっていうのはちょっと見えないんだ。もしかしたら来年までないのかもしれない。新シーズンに向けて日本に戻らないということで気付くのかもしれない。今は1年目と変わらないような気持ちで、自分を証明するんだ、チームを勝たせるために全力を尽くすんだという気持ちでやっているよ。
玲央 チームメイトの反応はどんな感じでしたか?
ニック 彼らも同様だと思うね。シーズン前にミーティングやチームイベントがあって、そこで日本人選手たちが僕の最終シーズンに向けて気合が入ってると言ってくれたりしていたから、開幕時はもしかしたらいつもよりも緊迫感があって、それが12勝2敗スタートに繋がったのかもしれない。でも正直、彼らも「これがニックとプレーするのが最後だ」という想いで常にやっているわけではないと思うよ。もしかしたらチャンピオンシップや天皇杯なんかになれば少しそういう気持ちも出てくるかもしれないが、「これがニックとの最後の11月だ」とかいちいち思わないよね(笑)。本当に長く一緒にやってきただけに、全てが通常。最後の最後に、みんな気付くのだろうね。

玲央 ではあなたの幼少時まで話を戻したいと思います。自伝で幼少期に色々なスポーツをやっていたと書いていましたが、バスケットボール以外で特に好きだったスポーツってなんでした?
ニック 若い頃はサッカーが特に好きだった。でも3人ぐらいでキーパーのいない状態で走り回ってるのが好きだったので、11対11の形式でやるようになってからはつまらなくなっちゃったかな。そこからは野球。そして高校ではテニスを好んでやっていた。あとはゴルフかな。実は高校の時にゴルフとボウリングとテニスをやるクラスを受けていてね。学校の一日の最終時限にゴルフ場まで運転して3、4ホールをプレーする。それが授業なんだからね、楽しかったよ。
玲央 最高ですね。

アメフトのおかげでバスケットボールをキャッチするのが簡単になった。

ニック あとはフットボール(アメフト)を1年ぐらいやったかな。ぶつかったりされるのが嫌いで競技としては続けなかったけど、学校なんかでは友達と毎日キャッチボールしてたよ。
大柴 クォーターバックですか?
ニック そうだね、クォーターバックが好きだった。こないだ辻(直人)との対談で、僕のキャッチが上手いって彼は話してたんだ。若い頃にアメフトのキャッチボールでいつもトリックキャッチの練習なんかをやっていたんだよ。片手で取ってみたり、肩越しに取ってみたりね。そのおかげでバスケットボールをキャッチするのがとても簡単になった。僕は色んなスポーツをやることの大切さを信じている。色々やることこそが、最終的に自分のやりたいスポーツの向上に繋がると思うんだ。
玲央 その上でバスケットボールを選んだのは身長が一気に伸びたのもあると思いますが、父親がバスケットボール選手だったことも大きな理由ですよね。
ニック もちろんだよ。5歳の時に父さんからバスケットボールを渡されて、教えてもらって、それがとても楽しかったんだ。だんだん上手くなっていくのも感じていた。そして14から15歳になる夏、8インチ(約20センチ)も身長が伸びて、バスケに将来性を感じるようになったんだ。
玲央 ひと夏に8インチって、毎日膝がめちゃくちゃ痛かったのでは?
ニック みんなそう言うけど、成長痛があったかは正直覚えていない(笑)。覚えてるのは、それまでウイングでプレーしていてダブルスタッガーからのスリーを打ったりする選手だったのだけど、夏を終えて高2(日本の高1)になって学校に戻ったら210センチぐらいあってね。コーチから「まだシュートしたいのはわかるけど、州で一番背が高い選手の1人になっちゃったからインサイドでもプレーしてくれ」って言われたよ。だから高2の時は中でプレーしながらもケビン・デュラントみたいにドリブルからのショットなんかも多かったね。

玲央 そこからネバダ大学に進学すると、一気に周りに大きい選手が増えるわけですが、その変化への対応は難しかったですか?
ニック 身長というよりも体重差の方が苦労した。僕は本当に痩せていたんだ。大学1年の時は開幕当初、オフェンスでは通用するけどディフェンスで押し込まれてしまうのを痛感した。だからウェイトトレーニングで身体を大きくするように心がけていた。チームメイトには、自分より決して上手いわけじゃないけど、身体がしっかりできている選手がいて、彼らを超えないといけないという想いだった。シーズン序盤、父さんに電話をして「プレーできないから辞めたい」って話したのを覚えてる。「ヨーロッパにでも行って、お金を稼ぎながらプレーするプロになろうかな」って。すると父さんに全力で止められてね。「絶対に辞めてはいけない。今はタフかもしれないけど、しっかりとやり通すんだ」と言われた。その時点で、簡単にやめるなんていう選択肢はないんだなと理解して、自分よりも屈強な相手に勝てるように、強くなる方法を見つけないといけないという考え方になった。力だけでなく、賢さでも勝つんだ。1月位になると、自分の中で答えを見つけ始め、活躍する試合も出てきた。そこから先発ラインナップ入りを果たし、それ以降はスターターとしてチームの主要選手になれたんだ。

玲央 大学のチームメイトだったラモン・セッションズ(NBAで11年プレー)とは今も連絡とってます?
ニック 実は数週間前に話したばっかりなんだ。シーホース三河でプレーしてるニモ正義が対戦後に僕のところにやってきて、彼の代理人がラモンであることを教えてくれたんだ。12月か1月に日本にくると言っていたから久々に会えないか調整中だよ。
玲央 代理人をやってるんだ!
ニック 彼も僕もお互いがいなければNBA入りはできていなかったと思う。彼はポイントガードで、僕がスコアラー。コート内外でとても仲よくしていたからそれが結果に繋がったんだ。
大柴 彼はいつまでプレーしてました?
ニック 3、4年前までやってたかな。NBAの後にイスラエルでプレーしようとしたんだけど、あまり上手くいかなかったんだ。10年ほどNBAでプレーした選手が海外で活躍するのはとても難しいこと。プロとしてプレーする動機のひとつにはお金を稼ぐという面がある。NBAでたくさん稼いでから、ヨーロッパに行って、必死にプレーする周りの選手と同じ熱さでやるのは相当難しい。
大柴 日本も似た状況ですよね。
ニック そうだね。僕は日本に来た時点で、まだ必死にバスケをやりたいという想いが残っていたから上手くいった。でも元NBA選手がやってきたのに「本当にNBAにいたの?」って思われることが多いでしょ。10年前にその選手を見ていたら、きっと全然違う印象なんだ。NBAでのキャリアを終えて、海外でプレーしたら楽しいかなと思ってやってくると、チームからは常に全力で練習することを求められて、楽しくなくなってくるなんてケースが多い。

玲央 キャリアに話を戻しますが、NBA入りしてからお世話になったベテラン選手はいましたか?
ニック NBAは難しい世界なんだ。リーグ入りした時は22歳なんだけど、ダラスには年上のベテラン選手が多かった。若い選手がいなくて、ワークアウトしたり夜中遊びに行きたい自分が、家族持ちのベテラン選手たちとどう付き合っていけば良いんだってなる。そんな中で、ゴルフ好きというのを理由に仲良くなったのがジェイソン・テリー。もちろんダーク・ノビツキーには強い憧れを抱いていたから、出来るだけ親しくなろうとしたよ。色々と教えてもらえないか話しかけて、夜彼がワークアウトする時に一緒に連れて行ってもらえるようになった。
玲央 それは凄いですね。
ニック クリッパーズではクリス・ケイマンだね。共通の趣味が多く、とても仲良くなったんだ。僕がチームに切られるかどうかというタイミングで、当時背中の怪我を抱えていたクリスがバスの中で僕にこう言ったんだ。「俺の背中、本当はもう問題ないんだけど、チームにはまだダメだと伝えるよ。そうすればお前と再契約してくれるだろう」って。まさか自分のためにそんなことをしてくれるなんて、鳥肌が立ったよ。その後プレータイムが増えていき、2度目の10日間契約が満了する頃に他のビッグマンの負傷なんかもあって、チームは僕とシーズン終わりまで契約することを選んだんだ。だからクリスと仲良くなれたことはキャリアにとってとても重要なことだった。高順位で指名されていないルーキーにとって、ベテラン選手の多いロッカールームで受け入れてもらうことはなかなか難しい。証明できるまでは、自分たちのチームの助けになる選手だと思ってもらえないからだ。それさえできれば、ようやく受け入れられて、交流なんかも増えていく。

玲央 B.LEAGUEとの違いは感じますか?
ニック B.LEAGUEは日本文化的な要素も強くて、みんなを受け入れて優しく接しようという雰囲気があると思う。全員にチャンスを与えようっていうね。僕がNBAにいた時は、25点差開いたガベージタイムに出場することがほとんどだったけど、そこでとにかく全力を尽くした。自分にとってはガベージタイムではなかった。でもB.LEAGUEでは本来ならそういう時間帯にしか出られないような選手が、普通の時間帯にプレーするのなんてよくあることだ。そういうのを見ると「ダラスでもそういったチャンスがあれば良かったのにな」なんて思うよ。だからこそ、今のB.LEAGUEの若い選手たちには、そういうチャンスが巡ってきたらとにかく全力で掴み取りにいけと伝えたいね。

玲央 足首を負傷したのはNBAのDリーグ時代ですよね。結果的に5ヶ月近く骨折した状態でプレーしていた訳ですが、当時の状況を教えてください。
ニック 足首の怪我は、常にNBAに急いで戻りたいという気持ちとの競争かのようだった。ユーロに行く前の夏、実はインディアナ・ペイサーズとワークアウトをして、球団社長のラリー・バードから「ビッグマンを指名しなければ君と契約する」とまで言ってもらえていたんだ。でも結局彼らはビッグマンのタイラー・ハンズブロー(その年の大学MVP)を指名。次のチャンスはワシントン・ウィザーズだった。当時の代理人がチームと繋がりがあったんだけど、結局それも上手くいかず、Dリーグ行きとなった。そこからはずっと、なんとかしてNBAに戻ろうと無理をし続けていたね。足首を負傷して、家でトイレに歩いて行くのを躊躇しちゃうぐらいもうボロボロだった。それでもプレーしたいから、もの凄い量の痛み止めを飲んでやっていた。それでなんとか数字は残していたけど、実質片脚でプレーしていたようなもんだよ。骨折していたと知った時は「そりゃ痛いわけだ」って感じだったね。
玲央 引退という言葉が頭をよぎることはありましたか?
ニック 何度もあったよ。もう選手は辞めて、AAUチームを立ち上げようかなと、ウェブサイトまで作っていた。当時のフィアンセと一緒にダラスに引っ越して、新しい生活を始めるつもりだった。でも彼女とは破局し、結婚もなくなり、住む場所すら失ってしまったんだ。親友の家に数週間転がり込んで、やっぱりバスケするしかないんじゃないかって言われてね、所属していたDリーグチームの街まで車で向かったんだ。高速の出口を見かけるたびに「やめた、引き返そう」っていう気持ちになっていた。結局チームと合流して、最初から良いプレーができていたおかげで、フィリピンでプレーしないかっていうオファーが来た。そこでようやく、またバスケをやろうかなっていう気持ちを新たに持つことができた。

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